吾妻鏡用ノート

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6月9日(土)「吾妻鏡」三 元暦元年8月大17日〜9月小28日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です。

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6月9日、(○○吾妻鏡の会は)今日で丁度50回です。鎌倉は先日306回を迎えましたし、横浜は29?回(一の位が聞き取れずm(__)m)です。後、鶴ヶ岡文庫が、何回だったかナァ・・・(と、先生も考えて、パスなさいました・・・筆者注
源平の騒乱が起こって、平家は今屋島に拠点を移したところです。

(という先生の前振り所から始まりました。そうかぁ・・・ここは、50回、8月と12月はお休みなので、一年に10回てすから、50回というと、丁度五年目が終わった所なんですねぇ♪・・・私は去年から移ってきたし、始めたのも遅いので、まあそれほどの感慨も無いのですが、始から参加なさっている方、運営している幹事さんにとっては大変なことでしょう。
もっとも、鎌倉は12月もあるので年に11回、とはいえ、27年余り・・・フー!気が遠くなります(^_^;横浜も一年遅れくらいでスタートしたんですネェ・・・凄い老舗だわ(^^))


○十七日 癸酉。源九郎主使者參着。申云。去六日任左衛門少尉。蒙使宣旨。是雖非所望之限。依難被黙止度々勲功。爲自然朝恩之由。被仰下之間。不能固辞<云々>。此[古の下に又]頗違武衛御氣色。範頼義信等朝臣受領[古の下に又]者。起自御意被擧申也。於此主[古の下に又]者。内々有儀。無左右不被聽之處。遮令所望歟之由有御疑。[ノの下に几]被背御意[古の下に又]。不限今度歟。依之可爲平家追討使[古の下に又]。暫有御猶豫<云々>。

[古の下に又]→事  [ノの下に几]→凡     (遮所望→国文研版では遮所望)  

――十七日 癸酉。
――源の九郎主の使者參着し、申して云く。・・・「源の九郎主(くろうぬし)」、源氏だから「主」がつく。

――『去んぬる六日、左衛門の少尉に任じ、使いの宣旨を蒙る。是は所望之限りに非ずと雖も、度々の勲功を黙止せられ難きに依って、自然(じねん)の朝恩爲る之由、仰せ下さるる之間、固辞能わずと<云々>。』・・・『』のあいだは義経の手紙。
・・・「左衛門の少尉」は従七位、検非違使の宣旨を被った、ということ。「検非違使」は律令内の官ではなく令外の官。京都の治安維持のために作られた。検非違使庁の役人になるためには衛門府の許可がいる。まず、衛門府の役人になり、その仲から特に朝廷に認められ、任命された者がなれる。

――此の事、頗る武衛の御氣色に違ふと。・・・「御氣色」はほのかに見られるご機嫌。

――範頼・義信等の朝臣の受領の事者(は)、御意自り起こり擧げ申さるる也。此主の事に於いて者(は)、内々の儀有り。
――左右無く聽(ゆる)されざる之處、遮(さえぎ)りて所望せしむる歟之由、御疑い有り。
・・・範頼(異母弟)・義信(平賀)が受領(国司)になったのは(6月21日の項参照)、武衛の推挙による。
・・・この時も義経は国司になりたがったが、頼朝は推挙しなかつた。そのため、義経が、頼朝を飛び越して直接ねだったという疑いを持った。
――凡そ御意に背かるるの事、今の度に限らざる歟(か)。之に依りて、平家追討使爲るべきの事、暫く御猶豫ありと<云々>。・・・今までも、頼朝の意に逆らうことが多かった。この事によって平家追討使の任も剥奪してしまった。

・・・「受領」というのは、国司が現地を管理する権利を受けている、ということ。この時代国司は遙任で現地に行かない。四等官制度(かみ・すけ・じょう・さかん)の中では守(かみ)は国司、介(すけ)は受領。いかに多くの土地を鎌倉幕府が掌握しているか、ということ。
・・・吾妻鏡は百年後に編纂した物だから、その当時の執筆者の書きかたにもよる。文治五年4月の義経死去の際の記事は頼朝の越権行為であるとしている。

筆者の呟き・・・既に、頼朝と義経の心は乖離していると思います。頼朝は、鎌倉を動かぬ指揮者としての政治形態を目指しているけれど。旧型の武士の義経には、自ら戦場を駆け巡り戦功を立てて行く自分こそ選ばれるべき源氏の棟梁だ、という意識が目覚め始めているのでしょうね。というほど、義経に大将としての意識があったか?と、義経の知能程度を疑う人もいるけどさ。あー、義経は単なる戦馬鹿だよ、とかね。でも、それくらいは考えていたでしょう。あれだけ戦の駆け引きに富んでいるくらいだからまんざらのバカでは無いと思う。そこがまたダメだった所だと思うんですよ。立派に戦馬鹿を立て通すくらいなら滅びはしなかった、と思うけど・・・なまじ利巧のなまじバカと言うのが一番ダメパターンで、義経はそれだったんだよネェ・・・。それにしても頼朝って、ホントに疑い深い嫌な奴っちゃ・・・m(__)m)

○十八日 甲戌。武藏國住人甘糟野次廣忠。雖非有勢者。赴西海可追討平家之由。進而申請之。御感之餘。於彼知行分者。免許万雜[古の下に又]之旨被仰下之<云々>。

――十八日 甲戌。
――武藏の國の住人、甘糟の野次(のじ)廣忠(ひろただ)、有勢(うぜい)の者に非ざると雖も、西海に赴き平家を追討すべき之由、進んで之を申請す。・・・「甘糟野次廣忠」は埼玉県児玉郡美里町甘粕
――御感之餘り、彼の知行分に於いて者(は)、万雜(まんぞう)公事免許する之旨、之を仰せ下さると<云々>。・・・事の前の「・」は「公」と頭注にあり。全ての雑税。税は田租(田んぼから上がる税)、公事は雑税(ざつぜい)。・・・平家追討を命ぜられると嫌がる者も多い中、「有勢(うぜい)の者に非ざる者」でも一旗上げよう、という気分で参戦する。

○十九日 乙亥。繪師下総權守爲久歸洛。賜御馬<置鞍>。已下餞物<云々>。


――十九日 乙亥。
――繪師、下総權の守爲久歸洛す。御馬<鞍を置く>已下の餞物を賜ると<云々>。・・・この年の(元暦元年)正月22日の項に「召しに依り京都自り参向す」とありました。「無双の畫圖達者なり」という記事もあった。後4月18日に「聖観音像を図絵を奉らる」と言う記事がありました。爲久は鎌倉十二社宅間ヶ谷(じゅうにそう・たくまがやつ)に住み、兄爲元は京都にて絵描きとして大成した。
文治元年の8月23日の項で、爲久は再び鎌倉へ来る。勝長寿院の壁画を描くためである。文治元年は記事が多いので一年を二つに分けてある珍しい年。

この爲久を普通に藤原爲久で検索すると、吾妻鏡入門」さんくらいしか出て来ないんですよ!先生のおっしゃった兄貴の分までは出てないし(関係ないからね)。でー、それでは横着で申し訳ないので相変らずの「横浜吾妻鏡の会」の人名辞典を引くと、出てました。「鎌倉初期の宅磨派の絵仏師。宅磨爲久と称し、下総権守に任じられた」そうです。でー「平安末期から室町初期まで存続した絵仏師の代表的流派宅磨派の宗家といわれる豊前の守宅磨爲遠の三男、宅磨派の京都での一系統を開いた宅磨勝賀の弟」とありました。宅間ヶ谷というのは、宅磨爲久の子為行が住んだからの地名のようですが、間と磨で字が違うようです。・・・筆者注?)

○廿日 丙子。安藝介廣元受領[古の下に又]。掃部頭安倍季弘朝臣<木曽祈師<云々>>。可被停廢官職[古の下に又]。已上兩條。被申京都<云々>。

[古の下に又]→事
――廿日 丙子。
――安藝の介廣元、受領の事、掃部の頭安倍の季弘朝臣<木曽の祈師(いのりし)と<云々>>、官職を停廢(ていはい)さるるべきの事。已上の兩條、京都に申さるると<云々>。
・・・安芸の国一之宮は厳島。安芸の国には延喜式内社が三つしかなく、一之宮は厳島神社、廿日市市に速谷神社、府中町(広島市)に多家(たけ)神社。しかも、この三社全てが名神大社(みょうじんたいしゃ)である。
・・・延喜式内社は朝廷から、延喜式神名帳に記載されている神社ということで、記載されていない神社も多い。
・・・(相模の国には延喜式内社は13社あるが名神大社は寒川神社一社のみ)

名神大社とは、古来より霊験が著しいとされる名神を祀る神社である。全てが古代社格制度における大社(官幣大社・国幣大社)に列しているので、「名神大社」と呼ばれる。名神大(みょうじんだい)とも記される。という、これは ウィキペデイアの明神大社より)

・・・安芸の国は、おそらくまだ平家。受領(介)は大江広元(この時は中原氏)となる。大江広元はこの後も鎌倉の有力御家人。9月18日には因幡の守となるが、その記事は10月24日に出てきます。

○廿四日 庚辰。被新造公文所。今日立柱上棟。大夫屬<康信>入道。主計<行政>允等奉行也。

――廿四日 庚辰。
――公文所を新造せらる。今日、立柱上棟す。大夫の屬(さかん)<康信>入道、主計(かずえ)<行政>の允(じょう)等、奉行也。

○廿六日 壬午。源廷尉飛脚參著。去十日。招信兼子息左衛門尉兼衡。次郎信衡。三郎兼時等。於宿廬誅戮之。同十一日。信兼被下解官宣旨<云々>。

――廿六日 壬午。
――源の廷尉<義経>の飛脚參著す。
――去んぬる十日、信兼子息左衛門の尉兼衡・次郎信衡・三郎兼時等を招き、宿廬に於いて之を誅戮す。
――同十一日、信兼は解官の宣旨を下さるると<云々>。・・・信兼は出羽の前司を解任された。山木兼隆の父。

○廿八日 甲申。新造公文所被立門。安藝介。大夫屬入道。足立右馬允。筑前三郎等參集。大庭平太景能經營。勸酒於此衆。

――廿八日 甲申。
――新造の公文所に、門を立てらる。
――安藝の介・大夫の屬入道・足立右馬の允(遠元)・筑前三郎(惟宗の孝久)等、參集す。・・・筑前三郎(惟宗の孝久)は帰化人の文官。
――大庭の平太景能(かげよし)經營し、此衆に酒を勸(すす)む。
・・・大庭氏は大庭御厨を開発した鎌倉権五郎景政の子孫。元々源氏に仕え、保元の乱には兄大庭景義・弟大庭景親共々義朝に従った。兄景能(景義)は治承四年(1180)の旗揚げ当時より頼朝に従い功を挙げて懐島権守として、今の円蔵一帯を領した。
一方、弟景親と景久(俣野氏)は平治の乱以降平家の恩顧を受けて平家方として、治承四年(1180)8月24日石橋山の合戦で頼朝を追い詰めた。景親は富士川の合戦(同年10月23日)で捉えられました。(その後26日「今日、固瀬河の邊りに於いて景親梟首す。弟五郎景久は、志猶平家に有るの間、潛かに上洛すと」。・・・筆者注)

・・・大庭景義は幕府の有力御家人として厚遇されて正元4年(1210)4月9日に逝去。しかし、大庭氏は建保元年(1213)5月の和田合戦で和田氏について滅亡した。




9月小の分はまた、この後でやりますm(__)m

○九月小
○二日 戊子。小山小四郎朝政下向西海。可屬參州之由被仰<云々>。又彼官途[古の下に又]所望申左右兵衛尉也<云々>。




○九日 乙未。出羽前司信兼入道已下平氏家人等京都之地。可爲源廷尉沙汰之由。武衛被遣御書。
  平家没官領内京家地[古の下に又]。未致其沙汰。依雖一所不宛賜人也。武士面々致其沙汰[古の下に又]。全不下知[古の下に又]也。所詮可依 院御定也。於信兼領者。義經沙汰也。       [御判]


(平家没官領内京家地[古の下に又]。未致其沙汰。依雖一所不宛賜人也。→国文研版では、未致其沙汰。依なし)


                    

○十二日 戊戌。参河守範頼朝臣去朔日使者。今日參著献書状。去月廿七日入洛。同廿九日賜追討使官府。今日<九月一日>。發向西海<云々>。





○十四日 庚子。河越太郎重頼息女上洛。爲相嫁源廷尉也。是依武衛仰。兼日令約諾<云々>。重頼家子二人。郎從三十餘輩從之首途<云々>。




○十七日 癸卯。相摸國大山寺免田五町。畠八町。任先例可[方|]募之由。今日下知給<云々>。

[方|]→引



○十九日 乙巳。平氏一族。去二月被破攝津國一谷要害之後。至于西海。掠虜彼國々。而爲被攻襲之。被發遣軍兵訖。以橘次公業。爲一方先陣之間。着讃岐國。誘住人等。欲相具。各令歸伏搆運志於源家之輩。注出交名。公業依執進之。有其沙汰。於今者。彼國住人可隨公業下知之由。今日所被仰下也。
         在御判
 下 讃岐國御家人等、
  早隨橘・公業下知。向西海道合戰[古の下に又]
 右國中輩。平家押領之時。無左右御方參交名折紙。令經御覽畢。尤奉公也。早隨彼公業下知。可令致勲功忠之状如件。
     元暦元年九月十九日
   讃岐國御家人
   注進 平家當國屋嶋落付御坐捨參源氏御方奉京都候御家人交名[古の下に又]
  藤大夫資光     同子息新大夫資重    同子息新大夫能員資  藤次郎大夫重次
  同舎弟六郎長資  藤新大夫光高       ・野三郎大夫高包    橘大夫盛資
  三野首領盛資   仲行[古の下に又]貞房  三野九郎有忠       三野首領太郎
  同次郎   大麻藤太家人
 右度々合戰。源氏御方參。京都候之由。爲入鎌倉殿御見參。注進如件。
     元暦元年五月日

[古の下に又]→事
(在御判→国文研版では、事書きの下に押されている)
(掠虜彼國々。→国文研版では、掠虜彼國〈云云〉。)  (可隨公業下知之由。→国文研版では、之なし)
(新大夫能資→国文研版では、新大夫能員)
(・野三郎大夫高包→国文研版では三野)
(大麻藤太家人→国文研版では、太麻藤太家人)



○廿日 丙午。玉井四郎資重濫行[古の下に又]。所被下 院宣也。今月到來于關東。武衛殊依恐申給。則可停止之旨。被仰下<云々>。
 丹波國一宮出雲社者。蓮華王院御領也。預給能盛法師。年來令知行。何有稱地頭之輩哉。年來又不聞食及。而号彼御下文。玉井四郎資重恣押領。其理可然哉。有限御領不可有異儀[古の下に又]也。早可停止件濫行之由。可宜令下知給之由。 院御氣色候也。仍執達如件。
      八月卅日        右衛門權佐
   謹上   兵衛佐殿


[古の下に又]→事
(預給能盛法師→国文研版では預給能の次に空白ありか?)




○廿八日 甲寅。去五日。季弘朝臣被停所帶職畢之由。自 仙洞。被仰源廷尉<義經>。々々又所申其旨也。彼状今日到來鎌倉<云々>。