吾妻鏡用ノート

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11月10日(土)「吾妻鏡」四 元暦二年正月大1日〜正月大月6日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です。

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ヌァ〜ント!今日から第四です!疲れますねぇ!!久々で漢文が読めるかどうか不安でした。まあナントカねぇ・・・でも、皆様のスピードには合わせられませんネェ。読むだけとか、返り点記入するだけ、というなら良いのですが、読みながら、カナ打って返り点入れて、というのは大変です(^_^;
カナを打つのは、例えば御書は、私は以前「みしょ」と習ったように思うのですが、先生は「ごしょ」と読まれますよね。なので、あとで自分の記憶がゴッチャになってしまうからです(^_^;
それと、これは情け無い話ですが、読めると思っていた字が、家に帰って打っていると読みが出てこないのですよ(^_^;まったく、ねぇ、最近はこの手のケースが増えました。・・・情け無い話ですm(__)m


吾妻鏡第四
       U ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄U
       U 元暦二年乙巳〈八月十四日、爲文治元年U
        ――――――――――――――――――― 


この分が、国文研版だと、↓になっています。活字の大きさなどは書かれていないので、わかりませんけど(^_^;

元暦二年・巻頭
V03
P001
L01新刊吾妻鏡卷第四
L02△元暦二年乙巳〈八月十四日、爲文治元年〉


「第四」
の第一回目なので、元暦2年(文治元年)という年の解説から始まりました。

文治元年というのは、鎌倉幕府にとって大事な年!年表でも丸々一ページにわたって書かれている。

大雑把に言うと平家を追討して九州・中国・四国を支配下に置く。
勝長寿院を建立した。鎌倉幕府の菩提寺です。御所の南に隣接。成朝(せいちょう)という奈良仏師にる仏像。それまでの都は「院派」と呼ばれる仏師たち。鎌倉は「慶派」一時代ごとに入れ替わる。鎌倉時代と室町時代は違うが、鎌倉時代と江戸時代は一緒。
(仏師の系図については「仏像の修復」というサイトさんのこちら
勝長寿院は二度の火事で最初は北條時宗が復興したけれど、室町時代にも火事にあって廃寺になってしまった。中世の鎌倉の史跡は殆ど残っていない。ここ40年ばかりの研究です。

東大寺の修復も!頼朝がいなければ、現在の東大寺はなかった!!
平家が焼亡させたものを源家が復興した。都との関係を考えて、ということ。
清盛が厳島神社を復興して、それを足がかりにして西海全権を掌握した、ということを考えている。
後白河政権への揺さぶりも大きい。無内許(むないきょ―頼朝の承認を得ていない)の受官に対して厳しい。

一月ごとに見ていくと・・・
 2月 義経が屋島で平家を破る。

 3月 義経が壇ノ浦で平家を破り、平家は滅亡。
同じく
 3月 頼朝が東大寺修造料米一万石・沙金一千両などを寄進した。これは、鎌倉幕府が公的資金を出した、ということ。それまでも 私的寄進はあったけれど、公的寄進になつた。

 4月 三種の神器が内裏に返還された。屋島の海中に沈んでいた物を回収した。但し、鏡と玉のみで剣は戻らなかった。
    頼朝は從二位に叙せられて公卿となる。

 5月 義経は宗盛を護送して鎌倉に赴くが、鎌倉に入れてもらえない。この時に腰越で止められて、腰越状を書いた、という。

 6月 重衡、南都衆徒に木津川河畔にて斬。南都は興福寺、藤原氏の氏寺で、隣に春日大社がある。

 8月 東大寺落慶法要。「玉葉」によると、この日は雨。これは未完成のうちに落慶法要をしてしまったためだという。
    建久元年(1190)と建久六年(1195)の二回、頼朝は上洛しているが、本当の完成を水に逝去。

10月 土佐坊昌俊が堀川の義経を襲う。義経は頼朝追討の院宣を受けている。

11月 今度は、頼朝に義経追討の院宣を出す。

12月 頼朝の要請によって多くの公卿の任を解く→頼朝の人事権が中央にまで及んだ!
     九条兼実を内覽とする。その兼実が「玉葉(4月26日)」で何と書いているか? 
     鎌倉幕府の要請を取り次ぐ「議奏公卿」十人を置く。

総追捕使というのは、古代中央国家が地方を治める為に派遣した。
総地頭とともに、これで警察権・徴税権・行政権を掌握した。
守護は各国に一人。鎌倉幕府の御家人の管理。
国司は中央政府から派遣される、その国全般を管理する。
地頭は各国に鎌倉から派遣される徴税請負人。

鎌倉幕府ができてから東海道の重要性が増す。諸駅の整備が進む。
東西関係・公武関係などに色んな変化がある。
熊野水軍・河野水軍の重要性が増す。
頼朝は鎌倉に居て、範頼・義経をリモコン操作する。


でー、本文が始まります。

○元暦二年乙巳<八月十四日爲文治元年>
○正月大
○一日乙酉。卯剋武衛<御水干。>御參岡宮。被奉神馬二疋。<黒鹿毛>。山上太郎高光。小林次郎重弘等引之。次法華經供養。導師別當法眼尊暁也。供養之後。被引御布施<[果の下に衣]物二。>右馬助以廣取之。

→国文研版では鶴  [果の下に衣]→国文研版では裹

――元暦二年
――乙巳(いつみ)
――八月十四日、文治元年と爲す。
――正月大
――一日乙酉(いつゆう)。
――卯剋(うのこく)、武衛<御水干。>岡宮に御參し、神馬二疋<黒鹿毛>を奉らる。・・・卯剋(うのこく)は午前6時。頼朝は神馬二頭を送り、法華経供養のお布施にする。年始の奉幣の行事。
――山上の太郎高光・小林の次郎重弘等、之を引く。
――次いで法華經供養。
――導師は別當法眼(ほうげん)尊暁(そんぎょう)也。
――供養之後、御布施<袋物二。>を引かる。
――右馬の助以廣(もちひろ)之を取る。



○六日庚寅。爲追討平家在西海之東士等。無船粮絶而失合戰術之由。有其聞之間。日來有沙汰。用意船可送兵粮米之旨。所被仰付東國也。以其趣。欲被仰遣西海之處。參河守範頼<去年九月二日出京赴西海。>去年十一月十四日飛脚。今日參着。兵粮闕乏間。軍士等不一揆。各戀本國。過半者欲迯歸<云々>。其外鎮西條々被申之。又被所望乗馬<云々>。就此申状。聊雖散御不審。猶被下遣雜色定遠。信方。宗光等。但定遠。信方者在京。自京都。可相具之旨。被仰含于宗光。々々帯委細御書。是於鎮西可有沙汰條々也。其状云。      

「但定遠。信方者在京。自京都」→国文研版「但定遠信方者、在京都。」
「被仰含于宗光。々々帯委細御書」→国文研版では「被仰含于宗光。++、帯委細御書、」

――六日庚寅(こういん)。
――平家追討の爲、西海に在る之東士等、船無く粮(かて)絶え、合戰の術(じゅつ)を失う之由、其の聞こえ有る之間、日來沙汰有り。・・・西國追討の武士・軍隊は船が無く、兵糧が欠乏して、戦う前に疲弊している。
――船を用意し兵粮米を送るべき之旨、東國に仰せ付けらるる所也。
――其の趣きを以って、西海に仰せ遣わされんと欲する之處、參河の守範頼<去んぬる年九月二日出京し西海に赴く。>、去んぬる年十一月十四日の飛脚、今日參着す。・・・手配をしている最中に、範頼からSOSの手紙が来た。「船も無く馬も無く米も無く、みんな帰りたがっている」という。
――兵粮闕乏(けつぼう)するの間、軍士等一揆せず。
――各(おのおの)、本國を戀い、過半者(は)迯げ歸らんと欲すと<云々>。
――其の外、鎮西の條々、之を申さる。
――又、乗馬を所望せらると<云々>。
――此の申状に就き、聊(いささ)か、御不審を散ずると雖も、猶、雜色定遠・信方・宗光等を下し遣わさる。・・・頼朝は、前々から風聞には聞いていたが、現地の実情に納得した。三人の雑色を派遣する。雑色は御家人とは違う、(頼朝の)個人的隠密。
――但し定遠・信方者(は)在京す。
――京都自り、相具すべき之旨、宗光に仰せ含めらる。
――宗光は委細の御書(ごしょ)を帯す。
――是は鎮西に於いて沙汰有るべき條々也。其の状に云わく。      



でー、次の三通の文書は、読むだけ読んで、次回に回りました。
今日は、第四の第一回目だったので、どうしても、その近辺の歴史全般の解説が主になりました。








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