〔2005京都旅行記〕

 今年度最後の出張(11.8〜11大阪)に合わせて、ねも母と京都お寺巡りをすることになりまして、今回はパックツアーではなく、およそねもん家らしくないフリーでいこうと、一月前くらいから宿探ししてましたが、すでに遅く、11月11日(金)はどこでも取れますが、12日(土)は全くといっていいほどないのです。それでもなんとか見つけまして決行ということになりました。紅葉はちょっと遅れ気味だそうで今年もあまり期待はできませんが(昨年は11月初めだったので、もっと早すぎて、神護寺がまずまずだったくらいでした)。

11月11日(金)
 ねも母は一足早く11時過ぎ京都着後、奈良国立博物館の正倉院展観覧をメインに奈良へ(その辺の詳細はこちら)。こちらは出張業務の終了予定は15時30分ということで、夕方、京都駅ビル北口(烏丸口)のホテルグランヴィア京都のロビィラウンジ・グランジュールで落ち合うことに。実は昨年も11月初めに京都に来ていますが、そのときは新幹線のある八条口だけでしたので北口の駅構内の変わり様にはびっくりでした(といっても以前に来たのは二十数年前だから問題外か)。
 
 でっかいクリスマスツリーを眺めたり、きょろきょろとおのぼりさんをして、待ち合わせ場所のグランジュールに入ろうとするところでねも母到着、すでに重そうな図録をかかえておりました。しばし休憩のあと、宿(というのがぴったり)に向かいました。
 烏丸通を歩いて10分足らず、東本願寺大門真ん前にあります高田家旅館です。今年で創業106年とか、かなり古めかしい、京都特有の奥行きのある細長い建物で、長い廊下の途中には坪庭、共同の洗面所などもありました。私たちの部屋はその一番奥の2階で、控えの間、バストイレ付の和室です。洋式のバストイレはあとから増設したようです。従業員さんたちもバイトの学生さんを含め、食事のあげ下げ、布団敷きで部屋に入る度に一々丁寧に挨拶しますし、みなさんきちんとしてますね。
 部屋の居心地は昔ながらの造りということもあって、となりの部屋の会話が聞こえたりして、結構気になりました。当然こちらからの音も聞こえるでしょうし。
 さて夕食は部屋に用意されます。これがまた数々の器がテーブルいっぱい並べられましたが、どれもおいしかったし、すべて食べてしまいました。いかに何でも食べすぎでしょう。二泊とも二食付でしたがあとで一泊は朝食だけでもよかったかなとは思いました。
 翌日の大雑把な予定を決めて就寝。

11月12日(土)
 好い天気です。朝食は8時、広間で他のお客さんと一緒です。内容はまずまずでした。
いよいよ出発ですが、ねもん家の行動パターンにしては珍しく、朝9時過ぎには旅館を出ました。というのも今日の予定は、主に洛北、洛東といっていいのかな、詩仙堂、銀閣寺、永観堂、青蓮院、知恩院、高台寺、清水寺辺りを軒並み巡られるところまで巡ろうというでのんびりしているわけにはいかないのです。が、市バスに乗るため京都駅に向かう途中、昨夜からコーヒーに飢えてまして、UCCカフェプラザで一服です。ここがねもん家らしいところかな。さて今日はどこまでまわれるのやら。
 京都駅前で市バスの一日乗車券を求め、10時前、市バス5系統に乗車しておよそ40分、一乗寺下り松町下車、詩仙堂へ。6、7分ほど坂道を登ったところにあります。途中に例の武蔵決闘の地一乗寺下り松の史跡がありますが、実は別のところ(上京区)に一条下り松遺跡があって、そちらが本当の決闘の場所だとか。

 正式には六六山詩仙堂丈山寺。この庵を造営した石川丈山は、中国の漢晋唐宋の詩歌三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、それに各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた詩仙の間があることから、詩仙堂といわれるそうです。
 小有洞という竹垣の門をくぐると、竹林に囲まれた石段に続く石畳の道と、落ち着いた趣きある佇まいです。中に入ると庭園に面した縁側にはまぶしいほどの朝の陽射しです。紅葉はいまいちでしたが、まったりしたひとときを過ごしました。それから庭園を一巡りして、もと来た坂をおりていきますと、右折方向に円光寺、曼殊院の案内板があります。いずれも紅葉で有名ですが。予定では南の方に戻るはずでしたが、近そうだし行ってみようということになりました。
 まず円光寺。歩いて2、3分くらいです。家康の開基による臨済宗寺院で、伝運慶作といわれる本尊の千手観音、円光寺版(伏見版)といわれる書物を刊行した際に使われた木版活字などが重文として保存されています。庭園は十牛の庭といい、紅葉のライトアップがされるそうです。洛北最古といわれる栖龍池(せいりゅうち)、水琴窟も有名です。



 またここの墓地には「花の生涯」で知られる村山たか女のお墓があります。同じところにサイド・オマールという人のお墓がありました。彼は戦時中、南方特別留学生第一期生としてマレーシアから来日、広島にて被爆、にもかかわらず救助活動に尽力し、終戦後帰国途中に症状が悪化し京都で下車、京大附属病院へ入院したが、原爆症で亡くなられたそうです。

 円光寺からさらに北へ登って15分ほど、曼殊院門跡の白壁の塀が見えてきます。門跡とは皇室一門の方々が住職だったことを示すのだそうです。青蓮院門跡・妙法院門跡・三千院門跡・毘沙門堂門跡の四ケ寺を加えて、五箇室というそうです。ここではいわゆるお偉方のための厨房で、唯一の遺構といわれる「上之台所」を特別公開中でした。こちらの庭園も秋の紅葉はもちろん四季を通じていろいろな花が楽しめるようです。  もっと北へ行けば修学院離宮がありますが、ここは事前の申込みがいるようなので、あきらめまして(というより当初の予定にはないのですが)、タクシーを拾い、銀閣寺へ向かいました。



 おみやげ屋さんの立ち並ぶ坂道を登って、総門から中門への参道の直角に刈り込まれた高い生垣(銀閣寺垣)を見まして、銀閣寺(東山慈照寺)は高校二年の修学旅行以来ということを思い出しました。ここはご存知、観音殿(銀閣)、銀沙灘、向月台が見所ですが、一般参拝料(御札が入場券)とは別に、秋の特別公開ということで、係員の説明付で特別参観料が、本堂(与謝蕪村、池大雅の襖絵)、東求堂(阿弥陀如来像、茶室・同仁斎)までで1000円、さらに弄清亭(香道の香座敷、奥田元宋の襖絵)を加えると2000円になります。悩んだ末に高い方にして観て回りましたが、弄清亭はどうでもよかったかな、というのが実感でした。庭を一巡りしてから展望所に登りました(途中、まむしに注意、という警告が書かれていました)が、上からの眺望もよかったです。
 銀閣寺を後にしたところで、すでに14時半を過ぎてまして、あまりおなかも空いてないが軽食でもということでおみやげ屋さんの並びの中程にありました喫茶店(たしか、ピンクのうさぎ、だったかな)で一服となりました。寺院巡りですので、喫煙できるところがほとんどないので文字通り一服です。

 つぎは永観堂禅林寺です。歩いて行けば20分弱かなと、ぼちぼち歩き始めましたが、ここまですでに結構歩いておりまして、少々くたびれ気味でしたので空車が通りかかったのをこれ幸いと乗ることに。ところで市バスの一日乗車券ってあまり使えない。いちいちバス通りの東大路通まで戻らないといけないし、実は、同一料金区間内だけ有効なので、すでに一乗下り松町で追加料金を払っているのです。結局一回しか使いませんでした。
 もみじの永観堂としてあまりにも有名ですが、あと一週間先かな。ご本尊の阿弥陀如来さまはお顔を左に向けており、別名、みかえり阿弥陀としてこれまた有名だそうな。厨子(といっていいのかな)の左右にはよく見えるように小窓がついてます。
 釈迦堂、御影堂、阿弥陀堂と参拝、ここにも水琴窟があり柄杓で水をいれて音を聞くことができます。小高い位置にある多宝塔からは京都市内が一望できます。
 というところで一日目はほぼ終了です。バスで帰ろうとしましたが、東大路通はかなりの渋滞です。結局、ウィスティン都ホテル京都で一休みして、蹴上駅から地下鉄で戻ることにして、また歩き始めました。
 途中、琵琶湖疏水のインクライン(傾斜鉄道)の軌道跡を写真に収めたりして都ホテルへ。大きなクリスマスツリーの前では花嫁さんが記念撮影してました。もちろんねも母も撮りました。しばしコーヒータイムの後、地下鉄東西線、烏丸線と乗り継いで五条駅にて下車し、旅館に帰着。
 そういえば都ホテルの近くには、東山を借景にした庭園で有名な無鄰庵があったことを帰ってから思い出しました。



 夕食は昨夜同様のボリュームでした。朝食の際にねも母が夕食は少なめにとお願いしたのですが、お櫃のご飯だけを少し減らしてくれたようで、料理の方は前日と内容はもちろん違いますが、器の数は変わりません。結局出されると食べてしまいますね。
明日は今日の続きということで青蓮院からスタートすることとして、荷物の整理をして就寝。


11月13日(日)
 今日もまずまずの天気です。9時にはチェックアウト、旅館のおじさんにお願いして、玄関先で記念写真を撮っていただき、出発。今日もUCCでコーヒーをいただき、となりのローソンに寄ってバッグとリュックをユーパックで送ることにしました。小物入れだけの身軽になって、昨日と同じ京都駅のバス停へ、乗車バスも昨日と同じでした。
 神宮道バス停で下車、今日の最初は、青蓮院門跡です。平安創建以来初めての、ご本尊である熾盛光如来(しじょうこうにょらい)の曼荼羅の御開帳が行われており拝観料にお守りがついてきます。国宝の青不動明王二童子像(複製)、秀吉寄進の一文字手水鉢、池泉回遊式庭園も見所です。5月頃の霧島つつじも見事だそうです。庭園の隅に鐘楼があり自由に撞くことができます。私たちも撞いてきました。


 おとなりは、ご存知法然上人の浄土宗総本山知恩院(華頂山智恩教院大谷寺)です。知恩院については、少し前にテレビで七不思議の一つ、甚五郎の忘れ傘のことを紹介してましたが、そんなことはそれこそすっかり忘れてまして、見ることはできませんでした。そういえば除夜の鐘で知られる鐘楼も見落としてます。
 現存の木造建築として最大の楼門、三門をくぐると、男坂と女坂がありますが、当然楽な女坂を登ります。大方丈、小方丈を見て、さらに奥の方に墓地があり、その一区画に千姫のお墓がありました。そのそばには、忘れ傘のもうひとつの言伝えにかかわる知恩院の守り神、濡髪大明神の祠もあります。知恩院最古の建築物でもともとの本堂だった勢至堂はあまり訪れる人もなく静かな佇まいです。最後に御影堂に参拝しましたが、その回廊の床板は節目を残して周囲がかなりすり減っていて凸凹状態でした。さすが歴史を物語ってます。

 ここまでで今日もすでに14時を過ぎてしまい、そろそろ昼食をとらなければと物色しながら円山公園を通り抜けてねねの道に入ると、そこはもう秀吉とねねの高台寺(鷲峰山高台寿聖禅寺)です。ここを先に済まそうということで、開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等を見学。傘亭、時雨亭は中を見せてくれたらいいのにと思う。高台寺蒔絵は見損なってしまいました。拝観料を支払った際にせっかく掌美術館の入場券も貰いながら、行くのをうっかり忘れてしまいました。家に帰ってきてから半券が付いたままの入場券を見て気がつく始末です。
 ここで昼食をということで、ねねの道沿いの「波ぎ茶寮」さんで茶そば弁当をいただく。おつゆがちょっと薄めかな、と思いましたが、まあまあといったところです。
 つぎは清水寺といきたいところでしたが、かなり込んでいそうだし、今回はパスにしました。
 

 そこで、お疲れのねも母には申し訳ないけれど、またまた東大路通を東山五条まで歩きまして、交差点からちょっと入った路地にあります河井寛次郎記念館に寄ることにしました。私は前に一度来ていまして、陶芸のことはよくわからないけれど、木彫の手作り家具類、特に坐り心地のいい、あたたかみある椅子たちがいい。ねも母も気に入ってくれたようです。
 記念館を出たところで16時5、6分前、今回はこれで終わりかな、ここから一番近そうな三十三間堂も無理かな、と思っているところにタイミングよくタクシーです。運転士さんに間に合うようなら三十三間堂へ、だめなら京都駅直行でとお願いしたら、ぎりぎりかな、とにかく行ってみようということなりまして、結果ほぼ16時、滑り込みセーフ、無事入れました。
 三十三間堂(蓮華王院堂)は当初の予定にはなく、ねも母もそんなに興味を示していなかったのですが、いざ入ってみると、千手観音、正確には十一面千手千眼観世音菩薩立像というそうですが、これが中央の本尊・千手観音坐像の真後ろに1体、左右に500体ずつで1001体(うち5体は各国立博物館に出稼ぎ中だそうです)、さらに風神・雷神像、二十八部衆像が整然と並んでいるのをみて、その凄い迫力に圧倒されたようです(写真はパンフより)。来た甲斐があったようです。堂内を一巡りした上に、お堂の外側までも一周してしまいました。

 京都駅までは歩いて戻りまして、お弁当と我が家へのおみやげを買って、18時発ひかりで帰途につきました。
 ということで今回の京都の旅は終了です。欲張りなねもん家夫婦は他にも、東福寺、金閣寺、仁和寺、三千院、京都国立博物館などなど、そしてのんびり京都の街中を歩いてみるとか、きりがないのです。それはまたの機会に。
 ねも母、歩き詰めでお疲れ様でした。そして留守番のみなさん、ご苦労様でした。ありがとうございました。


[反省] ようやく書き終えましたが、単なる中途半端な観光案内になってしまいました。いつものことですが。写真もあれも撮っておけばというのばかり。
 さてと、つぎは北海道(2005.02)? 中国(2005.09)? 思い出せるかなあ。