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10月18日(水) 「光源氏と紫上-7」 ジゴロの妻の社交術

あいかわらず、自分の文章に酔って突っ走って「はい、チャンチャン」みたいになってしまいましたが、「ふたり」については、まだ書かねばならぬことが残っています。
それは、「光源氏と紫上-1」で書いた「ジゴロとその妻」の軌跡です。ジゴロには、ジゴロのお仕事があり、その妻には妻のお仕事があります。前者は、勿論女性の心を自分に惹き付けて離さぬ事、後者はそれに堪えること、そして更にジゴロ自身の心を他の女性以上に魅了し続ける事ですが、それについては、「-6」までに書きました。しかし、このジゴロの妻にはもうひとつ大事な役目がありました。それは、「ジゴロの妻は私一人」と他の女性たちに認めさせ、更には彼女たちとうまくつき合っていくこと、です。

紫式部は、そのへん大変うまく目配りをしてあって、決して、紫上を超える女性を配してはいません。必ず何がしかの瑕(或いは弱点とでもいうのでしょうか)を与えて、用意周到に紫上が板頭を張るように考えられています。

藤壺に関しては別格扱いですが、彼女には帝の后という最高待遇を与えながら、猶それゆえにこそ「密通」という動かしがたい瑕を与えているのです。
六条御息所は、それこそ、位こそ前東宮妃、と藤壺に後れますが、知性・教養・才能・趣味・美貌・財力と全てに藤壺を超えるほどのファーストレディ振りを描きながら、あまりの「自我の強さ」に我をも人をも不幸にせずにはいられないという瑕を与えています。

第二夫人にして嫡男夕霧の母代たる花散里(東の御方)には、身分・人格・才能(どうやら財産はなさそうですが)と申し分無く与えた挙句容貌が劣る、というバカバカしい理由で、まぁ当時としてはこれが一番の女の売り物だったのでしょうけれど、紫上を超えられない!

第三夫人の明石御方には、多分父親の明石入道が密貿易でしこたま貯めこんだのではないか、と思われる莫大な財力があり、知性・教養・趣味と優れたものを与えられているのに、身分が問題外、というほどに低く設定されているのです。但し、これには、かなり疑問があって、唯一箇所ですが、明石入道の言葉で源氏とは縁続き、源氏と明石御方は「またいとこ(はとこ)」同士と思わせる記述があるのです。これが不思議なところで、血統第一の当時なら、もし、本当にまたいとこ(はとこ)同士なら、他の大臣家の養女にして第三夫人として披露してもよいだろうに、と思われるのです。大体この頃の現実の皇后の生母には大納言どころか受領の娘がけっこういた筈ですから。それについては、後日別項にて。但し、私はこの明石御方の人格についてはかなり嫌味な感じを持っているので(「明石」参照)源氏が、後々、心が離れてしまうことをさもありなん、と考えています。

朧月夜こそ、源氏にはピッタリの源氏以上の身分・家柄を持ち才気煥発・男を捕らえて離さぬ魅力に溢れた美貌の女性というのに、これまた源氏以上の浮気者、といったら気の毒ですが心の定まらぬ女性で、とても家庭には収まらない!

玉鬘は才気も人間性も申し分無いけれどライバル頭中の娘で、源氏として都合が悪い。
末摘花は問題外。空蝉も剃髪後の後見というか食客のようなもので、問題外。
大問題の朝顔宮は本人にその気が無くて、あちらがわから問題外、と言われているようなもので・・・

女三宮は「若菜」専用ヒロインでもとから仕込杖で登場した女性です。おまけに、身分ばかりでナンノ才能も無いパープリンという書き方をされてお可哀想に・・・というほどで。
あっという間に殺された(!?)夕顔と葵上については、ひたすらお気の毒です、というしかない。
いやぁ〜、ここまで数えたてると、紫式部の意図としてはとにかくやみくもに紫上をヒロインにしたのではなく、かなり、用意周到に手配しておったのだなぁ、というのが実感です。

で、まぁ、紫上としてみれば、自分が上に立つのですから、かなり心広くお付き合いができるのですよ。
第二夫人の花散里とは六条院の運営を分担していた形跡もあるし、なんてったつて、容貌的に絶対有利というのはわかっていたのでしょうから安心です。それに花散里の性格がよい、というのも紫上を安心させることだったでしょうし、源氏が嫡男を預けて母代にした、ということについては、なんで私に預けないのよ!という思いが多少はあったにしても、そういう才能がある人なのだ、と納得できれば問題ないはずです。現に花散里自身が姉女御の世話をするために宮中に上がっていたキャリアウーマンであったことも(まぁ、源氏とはそこで知りあったのですから)衆知のはずですから。
秋好中宮の里下りの折には、二人が仲良くやっているという世間話まで源氏から出るほどです。

と、来て、さあ、許せないのは明石御方です。彼女は源氏が須磨流謫の折に結ばれた女性で源氏の娘を産みます。
「もりの散歩道」で紫上と明石御方の話題で盛り上がった時、私は「現代の妻の感覚でいうなら」と前置きして、
「左遷で単身赴任中に、留守宅では心細い思いを堪えて、一生懸命ダンナのこと心配しているというのに、現地の若い女の子と浮気して子どもが出来たと言われたら、私なら一生許さないわ!その女と子どもにガソリンかけて火をつけちゃいます。」と書きこんだのですが、そういう思いは当時の紫上にしたとしてもあったのではないでしょうか。
そのへんを、円地氏は清水好子氏との対談で(「光源氏と紫上-2」参照)とりあげていますが、その部分以前に、清水氏の
「子供がいなかったことも、源氏としては残念だったんでしょうね。紫の上は、明石の上をたいそう嫉妬しています。身分からいえば、明石の上など問題にする必要のない人なのですけれども・・・」という発言があり、やはり異常なほどの嫉妬をしていたと考えられます。

ところが、私は、この一連の感情を単純に「嫉妬」とは考えられないのです。便宜上私も「嫉妬」という語句をよく使っていますが、この明石御方に対する紫上の感情は、本来は「憎悪」或いは「嫌悪感」なのではないか、と考えているのです。
嫉妬というのは対等以上の相手に感じるものだと思うのです。つまり、紫上が朝顔宮に感じた嫉妬、これは嫉妬です。六条御息所が葵上に燃やした青い炎、あれは嫉妬ではなく憎悪の炎だった、と思うのです。
また、自分がどうしても傍にいることのできない時を狙って擦り寄ってきた泥棒猫、という思いさえあったのではないか、と考えています。

前出の「もりの散歩道」での書きこみの前文に、私は
―紫上って、そんなに対等に明石をライバル視していたのでしょうか?けっこう明石に対しては嫉妬していますが、同じ世界の人ではないですから、ね。紫上は孫王、花散里にしてからが大臣の娘で、姉は女御、だから源氏の嫡男を預かることもできるわけですよね。それに引き換え、先祖は大臣とか中務卿といっても、今は受領の娘では中将とか宰相とか呼ばれる侍女たちと同じですから、六条院に局をもらって住まわせてもらうだけで、破格の待遇ですよね。
花散里のことは源氏と秋好中宮との話題にも出てくるくらいですが、明石の御方は決して人には漏らせない「恥部」のようなものでしょ。紫上としても、自分がどうこうというより、源氏が会わせたがらなかった、というふうに理解していますがどうでしょうか?
ただ、紫上個人としては、会う、というより「見たかった」と思いますが。―と書きました。

それについても少々のやりとりがありましたが、主宰者のMoriさんが書かれた御意見で
―前略―源氏が明石の御方のことを恥と思っていたかどうかについては、Moriはよくわかりません。
明石の姫君の実母として恥ずかしくない待遇を与える必要があった、ということもあると思いますし、そんな風に明石の御方に関しては上手く隠したり出したり調整をしている気がするので、Moriにはちょっと源氏の真意はわからない。
あと、紫の上は結局明石の御方に嫉妬していたかどうかですが、Moriはしていたと思います。
まず、Aさんのおっしゃるように「玉鬘」の巻の衣配りのところですね。あそこで紫の上が「めざまし」と思っています。「めざまし」ってーのはけっこうハゲシイと思います。元旦の夜に源氏が明石方に泊まったことで、例のだんまり攻撃に出てるし。(すねると黙るでしょ)
あとはBさんのご指摘のように、女三宮の会見の時に身づくろいをするのは明石の御方に恥ずかしくないように、とありますし。(「若菜上」)
まあ、ここのところは個人的には「ホント〜〜?それって、実は自分に対するポーズで、深層意識下ではやっぱり女三宮を意識してるんじゃないの〜〜?」という気もしますが・・・。
あと、他にもまあ色々ありますよね。そういう箇所が。
感情的な部分に飛びますと、皆さんがおっしゃるように、遠距離恋愛単身赴任の最中にヨソで子供こしらえられたら、相当面白くないですよ。本来憎むべきは源氏なんだけど、それ分まで相手のことを面白くなく思うのが、まあ、普通の女性の感覚でしょうね。で、それが第一印象ですからねえ。。。―後略

というのが一番冷静に分析されているのではないか、と思いますが、それでも、私は「嫉妬というよりはなぁ・・・」とがんばります。

それでも、なんとか波風立てずに六条院の運営はなされて行きます。やはり、キーポイントは明石が生んだ娘を紫上が育てることで、源氏にとって一番の女君は紫上だと宣言したようなものですから。

女三宮に対しては――勿論憎悪も嫉妬もあったかもしれないけれど、この段階では、もはや女三宮どうこうというより、源氏に対する絶望が大きかったように思います。しかも、現実に降嫁があった直後から既に勝負あった(紫上が圧倒的に愛情を占め続ける)ということは悟った筈です。にも拘わらず、男の愛情のあまりにも虚しいことを知ってしまっては女三宮を憎む気力さえ萎えた、と言ってもよいのではないかと思います。まして、女三宮が剃髪してしまえば、もはや源氏とふたりで世話をする、という仕儀にいたってしまいます。
そのへんのところを、円地氏の対談集「源氏物語のヒロイン達」では、

清水―女三の宮が尼になりますでしょ。それまでの紫の上はずいぶん辛い思いをしているはずですのに、女三宮の出家についての彼女の気持ちはほとんど書かれていませんね。
円地―ほんとにそうですね。
清水―女三の宮の持仏の開眼供養をする。いっさい源氏の営みといいますか、源氏が面倒をみますが、そのうちの「幡」などのお飾りは紫の上の受持ちである、と一言書いています。さらに坊さんたちの法服も全部、紫の上が受け持って、染め方も縫い目も素晴らしい、とまたここで、紫の上という名前が出てまいります。つまり女三の宮が出家したあと、源氏と紫の上が一緒にその世話をしている、というふうに書かれているのです。
円地―やっぱり紫の上とすれば女三の宮が出家したので、安心したわけでしょう。
清水―言葉は悪いですけれども、紫の上が勝利者であることを、品よくほのめかしているような感じがします。

というおっしゃりかたをしていますが、私としては先にも言うとおり、ある程度の安心感は芽生えたでしょうが、そんなものでは繕い切れない大きな裂け目を感じたのではないか、と考えています。

しかし、なぜ紫上は源氏から自立しなかったのでしょう?この頃は、もう既に、紫上個人の私有財産(2000年7月5日「光源氏と紫上-2」参照)はできているはずです。それがたとえ源氏から与えられた物であったとしても。そういえば、おかしなことに、源氏との仲が公になって、実父の式部卿との行き来が始まった後にも、紫上の母方の故・按察大納言邸やら、それに付随する荘園等を返してもらった様子はないのです。当時の力関係でいえば、式部卿宮としては、源氏にいい顔するためにだけでも紫上に返していいはずですけれど・・・。
「初音」の頃には、源氏は別れた女性・背いた女たちにも、一様に親切だということは紫上には充分わかっていたはずです。それが、剃髪ひとつにしても、あれほど望んでいるものを、源氏の許しがないために踏み切れないでいるのはなぜでしょう。

それは、やはり、私は他の女たちとは違う!という紫上の自負ではないかと思うのです。(7月22日「光源氏と紫上-3」参照)
女三宮の降嫁があっても、それは揺らぎませんでした。思えば、源氏の四十の賀は、養女の秋好中宮と玉鬘・嫡男夕霧、そして妻たちの仲では、紫上だけが祝っているのです。夕霧は冷泉院の意向も含めていますし、そこには花散里も参加します。また、明石御方は表立って行事を取り仕切ることのできる身分ではありません。まあ明石姫(このときは東宮女御として第一子を懐妊中)が催せばそれに便乗することはできますが、なぜかしないのですよ、これが。懐妊中はこういう催しごとはできないのでしょうか。そして最大の不思議、降嫁して源氏の正室におさまっている女三宮はなぜしないの?素朴な疑問です。
まぁ、とにかく源氏の四十の賀を主催することのできる妻は紫上だけだった、ということ。紫上には、源氏に対しての不満や恨みを超えて、自身の孤独・行く末への不安すらも超越して、この男の妻はわたしひとり、この人を残して勝手に出家はできない、という自負があったのだと思います。それが紫上を支え源氏を残して出家することへの拘りとなっていたのではないか、と思うのです。

それが脆くも崩れたのは、あの女樂(「若菜・下」)の翌日の語らいの中です。「君こそはー」と述べる源氏の感慨(「光源氏と紫上-2」参照)が源氏自身大変満足していることを現していると思います。そしてその、あまりにノー天気な源氏の話に、ああ、この人は私の気持ちを何一つわかろうとはしない、わかるはずのない人なのだ、という実感だったのではないでしょうか。
そして発病。病平癒を願って、源氏ともども自分の城ともいえる二条院に帰り、小康を得れば、出家した朧月夜や女三宮の世話が回ってくる、これでは出家する暇もない、というのが現実だったのでしょう。紫上はあくまでも自分を押し殺して二条院に病を養いながら、六条院の女主としての義務を果たしつづけます。


さてもうひとつ、明石姫との関わりを挙げねばなりません。
明石姫は、あの憎い明石御方が生んだ娘です。けれど、紫上は自分の手許に引きとることになって、全く自分の実子のように慈しみ育てました。
明石姫自身も長じて女御に立った後も
「東宮の御方は、実の母君よりも、この御方をば睦まじきものに頼み聞こえ給へり。」というほどに、紫上になついています。明石御方にしてみれば、手放さねばならぬ事情があつた、姫自身のためだとしても、育てればこその明石姫の紫上への愛なのです。
ここにもうまい伏線が這ってあって、紫上は母の愛を知りません。しかも、実父兵部卿宮の北の方は何かにつけて紫上を憎みこれぞ正しく落窪か、はたまたシンデレラ状態!
かの北の方のやうなる継母にはいかでかなるまじとぞ!と、紫上が固く決意をしていたのは吝かでない、と思います。紫上は自分の理想とする母親像を描き、演じることによって、明石姫を慈しみ明石御方に対する自分自身の憎悪をも乗り越えて行ったのです。

かくて理想的な義理の母子が出来あがります。
私はここにも紫式部の一つの意志を感じます。当時は乳母の時代でもあります。乳母の方が実母よりウェートが重いのです。ある意味では、実母は生むだけ、の存在でしかないのです。ところが、「源氏物語」の中では、乳母がでてくるのは出てきますがウェートが軽いのです。本当に便宜的に出てくるだけですが、「玉鬘の大宰府逃避行」と「夕霧と雲居の雁の恋」。
あ、女三宮の乳母がいました。嫁入りの相談の時だけは出てきて朱雀院に源氏のところに降嫁させろと進言してますが、その後紫上との対面にちょっとだけ出て、後は小侍従(柏木の手引きをした、ま、これは柏木の乳母の姪ですが)なのですよ。
源氏のたっての頼みで、わざわざ明石くんだりまで下向した明石姫の乳母はどうしたのでしょ?大堰の明石邸まではいたはずなのに・・・
まず、第一に紫上の乳母少納言はどうしたのでしょう?須磨流謫の折までは紫上のそばで「少納言をはかばかしき者に見置き給へれば、親しき家司ども具して、しろしめすべきさまども宣ひあずく。」なんてことを源氏に言われていたのに途中から消えてしまった・・・。

紫式部も、母の愛に薄かったまま成長し一女をもうけました。勿論当時のことですから乳母の存在は母より大きく、それなりの愛もしつけにも乳母は努力をしてくれていたでしょう。しかし、賢い式部を育てられるほどの乳母が(受領階級に)そうそういたとは思えません。更に執筆と宮仕えでわが子にかかわずらうことのできない自分、我が思いとはかけ離れた育ち方をして行く我が子。そこで、式部は考えていたのではないか、乳母でなく、実の母でもなく、血の繋がりというよりも、育て育てられている内に湧き上がって来る血よりも濃い結びつきがあることを。私の血が流れているから愛しいのではない、私が心をこめて育てているからこそ愛しいのだと。そして、動物的な親子としてではなく、個人対個人として互いを思いあうふたりの女性として互いに成長して行くことこそ真実の親子なのだと。
だからこそ、子供が一人前になったとき、潔く身をひくことができるのだと。
そして、そのためにこそ、紫上の終焉を見守る役目を源氏ではなく明石姫に預けたのではないか、と私は思うのです。

御身には知り給へ、女の身のいかに儚きにか。されど愛で給へ、御身を、またあまたの人々を、人の世にあるかぎり、とて心の内に聞こえ申し侍りぬ。
と次の世を生きる女にバトンを渡すように明石姫の手をとり無言のままで心を告げるのではないか。そこには源氏が割りこむ隙はなく、魂が飛翔した後の骸となった紫上を呆然と見詰めるしか源氏の役割は残されていなかったのではないでしょうか。男女の愛は現世を生きるためのものだけでしかなく、また、それゆえにこそ儚く美しいけれど、次の世にわが思いを託すとき、それは、同じ思いを知る同じ性を持つ者でなくてはならないのではないか、と私は考えます。

大和和記氏の「あさきゆめみし」では紫上が源氏に抱かれて息を引き取る、というシチュエーションになっていて、「わたしはどうしてもそうしたかった」と作者がおっしゃったそうですが、それはまたそれ。

「ふたり」で男女の愛憎の修羅の世界を泳ぎきった紫上はその命の尽きる時、男と女はどんなに愛し合っていたとしても、この世に生きる間のうたかたのものである、と、悟ったのではないでしょうか。そして、たったひとりで何処にか羽ばたき飛び立ったのだと。見送ることのできるのは、紫上が手塩にかけて育てた娘、今はもう独立して一家を構える女性、そして女としての哀しみを分かち合える女性の明石姫だけだったのだと、私はそう思いたいのです。



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