前ページへ/表紙へ

5月13日 (木)「藤壺」

でも、それなら「藤壷」は何なのさ?
藤壷の姪というのが何より「売り」でもらった女三ノ宮というわけではないけれど
果たして、「桐壷帝」は「藤壷」を愛していたのでしょうか?

二亡き者をまだあるとそ゛おぼしたりしわがみの御不覚
儚きサマにありながら御心にこたえんとて
生のかぎり契り交わせたまひしなき御息所のご無念いかにやと思しはからるるにつけても
我が子、我が后の裏切りは亡き人の怨みにやあらむとぞ
忌々しきこと聞こし召すとも御心ひとつにおさめたまふ。

とは、私の手遊び、ですが、どうかしら?

つまりてすね、源氏が「藤壷の姪」という一事に飛びついて女三の宮の降嫁をうけて
あまりにも幼稚な宮様に失望しますね、
それと同様な思いが桐壷帝にも合ったのではないか、ということ。
まぁ、藤壷は、源氏の永遠のマドンナになる女性ですし、
一応、思慮深く(というより、腹に一物、という感が深いのですがネ)
手蹟も見事で、あれこれの才もあり、てな風に、偉く美化されてはいるけれど、
どれほど才色兼備のやんごとなきお姫様であったとしても、果たして
桐壷帝は亡き更衣と同じように愛せたのか?

原文には
「げに御かたちありさま、あやしきまでぞおぼえ給へる。
これは、人の御きはまさりて、おもひなしめでたく、
人もえおとしきこえたまはねば、うけばりてあかぬことなし。
彼は、人の許し聞えざりしに、御こころざしあやにくなりしぞかし。
おぼしまぎるとはなけれど、おのずから御心うつろひて、
こよなう思し慰むやうるも、あはれなるわざなりけり。」とありまして、

藤壷が更衣にそっくりなこと、彼の人は、御所全体が反目しているにもかかわらず、
ご寵愛が深すぎたのだが、こちらはなんたって先帝の内親王だかんね、
更衣のことを忘れたと言うのではないが、自然と藤壷に心うつりして
この上なく満足そうなのも憐れ深いことじゃぁ、てなことが書いてあるのですが、果たしてそうだろうか?

勿論、女房と畳は、なんて下世話なたとえを持ちだすまでもなく
古いものより新しいもの、盛りより蕾、まして、さる者は日々に疎し、だがね、
女盛り、内親王に比べれば更衣は苦労人、話の趣、立ち居振舞い、
水も漏らさぬ男女の仲、ましてや、四面を敵にまわして白刃渡りの愛を貫いてきたのですぞ!

相手が死んだよ、似たのがいるよ、もっと若いよ、
はじめはすきごころ、「あひみての・・・」後の心はどうなのさ?
誰にも言わず、たっぷり、後悔の臍を噛んだのではないかしら。
ただ、ここが源氏と違うところで、(朱雀院はここが父譲りだと思うのだけど)
帝位についているお方にしては、誠実で責任感が強い!

桐壷に似ているということで、むりやり入内を進めて迎え入れた女性に対して
源氏が女三の宮をうち捨てたような扱いはしなかった、ということではないでしょうか。
勿論、桐壷を苛め抜いた弘毅殿の女御達に対するあてつけも
若干はあったのじゃないか、とは思いますが。
そんな中、源氏と藤壷との忌々しき噂を耳にする、
怒りも、哀しみもあったとしても、
むべなるかな、かのひとは、このきみにこそそひたまふべきなるを
とて、御胸のうち一つにつつみたまふ・・・たのではないかしら。
また、もし、今藤壷に悪い噂が立てば、それは亡き桐壷更衣をも再び指弾する風向きともなり兼ねず、桐壺帝にとっては、そのことの方が余ほど辛い出来事ではなかったでしょうか。

藤壷にしたって、宮廷中の問題児であった桐壷の更衣に似ていると言われて
愛されているのは、心外という部分も合ったと思うのです。
当然、桐壷帝は更衣との愛のしきたりを踏襲したでしょうしね。

そこへ、同じ似ている、という出発点ではあっても
もっと、サラな気持ちで一途に自分を愛している若者がいる、
となったら、そちらに心動かされてもいた仕方ないかも。
しかも、前妻の子であれば、それとなし桐壷帝への遺恨ばらしの気分があったとしても
心痛むということはなかったように思います。
でなければ、何度も逢瀬を重ねて、不義の子までも出産し
そのあとしれしれと中宮でございなんて、鉄面皮なことできないわ!
藤壷に比べたら、女三宮なんてほんとに純情!
出産後は尼になってしまうではありませんか。

まぁ、源氏物語はコキュとかたしろ(形代)の物語で、おおもとになる
藤壷を(ホントのおおもとは母たる更衣だと思うのだけど)とにかく
大スターに仕立て上げなくてはならなかったのだとは思うのですが。

しかしながら、私としては「藤壺の白眉たる場面」は「秋好中宮」の下りでも書いた冷泉帝への入内準備です。
冷泉帝は表沙汰にはできませんが我が息子です。その母親(つまり、嘗ての最愛の思い人藤壷中宮、今は剃髪して入道の后の宮です)と密談して、かねてからの朱雀院のご執心を知らぬ顔で入内をすすめます。
勿論、これは冷泉帝政権(?)への源氏の布石です。
既に冷泉帝には頭中将(この時は既に権中納言)の例の弘徽殿の大后の妹腹の娘が入内して、同じ年頃でなかなか睦まじい様子なのです。また、藤壺の兄、というより紫上の父兵部卿の宮も紫上の異母姉を入内させようと大童であるのを横目に、着々と事を運んで行きます。

この折りの入道の宮(藤壺)が凄いのです。
源氏が兄朱雀院の斎宮への思いを知って迷うようなことを言うと、
(藤壺)「いとよう思しよりけるを、院にも思さむことは、げにかたじけなう、いとほしかるべけれど、かのご遺言をかこちて知らず顔に参らせ奉り給へかし。」と言い放つのです。その後に
「今はた、さやうの事わざとも思しとどめず、御おこなひがちになり給ひてかう聞こえ給ふを、深うしも思しとがめじと思ひ給ふる」とはすさまじい。
更に自分の姪に当たる兵部卿の宮の姫君の入内についても、
「入道の宮、兵部卿の宮の姫君を、いとかしづき騒ぎ給ふめるを、大臣のひまあるなかにて、『いかがもてなし給はむ』と心苦しく思す。」というも空々しい、というところでしょうか。
そして、我が子冷泉帝には、
「『宮の中の君も同じ程におはすれば、うたて雛あそびの心地すべきを、おとなしき御うしろみは、いとうれしかべいこと』と思し宣ひて、さる御けしき聞こえ給ひつつ」というのですから、まだまだ子供の冷泉帝はひとたまりもありません。
このあたり、定子の華やかなサロンと一条帝の定子への惑溺振りを嫌って一条帝の母詮子が道長・彰子親子に肩入れした、というのを思い出させる、というのは私の考え過ぎでしょうか?

こうした藤壺の内示を受け源氏はまた、
「さらば、御けしきありてかずまへさせ給はば、もよほしばかりのことを、そふるになし侍らむ。」と知らぬ顔で入内を押し進める事にします。
この下りは、何度読んでも背筋がぞくぞくするほど生々しく色恋の行きつく先のあじけなさ、を思わされます。
私としては、この「あまやかな」源氏物語の中の白眉とも思われる場面なのですが、あまり、そういう受取り方する方はすくないのですね。


2000年2月19日付記
「後宮の宴」で葵氏が、女性史の「国母」というタイトルでの一文に興味深いものがありました。以下―

「物語の中で藤壺の国母になってからの政治介入は見事で、光源氏との間に出来た不倫の子冷泉帝が即位すると後見である光源氏と結び朱雀院を押しのけ帝の後宮の人事を掌握しています。
これは国母になる前の彼女にはみられない政治家としての冷酷さで国母としての権力の大きさを物語ります。
確かに源氏物語は小説ですが、時の権力者と無関係のものではありません。
道長が姉でもある国母詮子の力により世に出たという史実、それと併せて紫式部の仕えた姫、彰子の変身も見逃せません。彼女は優しき皇后であり、ライバルの定子の産んだ子を、我が子よりも先に帝位につけたいと願ったりしますが我子が帝位につき国母になった途端に幼帝を補佐し政治介入をしているからです。
ただ父道長の駒に成っただけでなく国母彰子として生きた彼女は、どことなく藤壺は似ていると思うのです。」

――私は後の「女三宮」の章で「女三宮モデル考」の中で彰子を取り上げているのですが、ナルホド、
彰子像の投影としては、藤壺こそがふさわしいと、今更のように感じました。
殊に葵氏の言われるとおり、国母としての藤壺には、たぶんに上東門院彰子の影が色濃く映っているのでしょう。
そして、その投影の仕方は、彰子賛美とはいささか赴きを異にする風があると感じるのは、「女三宮モデル考」で彰子をとりあげた私の僻目でしょうか。

2000年5月22日付記
紫上のところで、詳しく述べたいと思いますが、先日引っ張り出した山本健吉氏の「古典と現代文学」の「源氏物語」の章に、藤壺と紫上のヒロインの二重性について触れた後に、次のような説が述べられています。長いですが、その部分を全文掲載します。

――藤壺と光源氏の秘恋を主題に持っていたらしい「輝く日の宮」の巻があったということについては、定家が『奥入』の中で一説として述べていることである。そして戦後の諸家の物語性立論でも、この巻が何らかの理由で脱落したことについては、玉上琢彌・風巻景次郎氏をはじめ、諸学者の一致するところとなつている。折口(信夫)博士は、この巻にも、その前型を考え、輝く日の宮、すなわち藤壺の女御の「紫の物語」があり、そのあとにもう一人若い女性の「紫の物語」が出て来たから、「若紫」の巻になったのだと、極めて暗示的な説を述べられている。それも藤原氏出身の女性の物語であったのを、紫式部が王氏(女源氏)の物語に書き替えたものと推測される。ここに到って、もう一つ『原源氏物語』の存在を考えなければならなくなるのだ。だから紫式部にとっては、『源氏物語』とは、何よりもまず女源氏(藤壺女御・紫の上)の物語だったのであつて、それが、光源氏という男性中心の物語に変貌したことは、むしろ作者の意外とするところだったと言うのだ。
「光源氏、輝く藤壺」(桐壺)と並称されている藤壺のモデルが、「輝く日の宮」と呼ばれた上東門院だったことはかんがえられることである。院に仕えた女房の筆になるのだから、もちろん理想化された姿に描かれるのであって、継子との道ならぬ恋ということは、「もののあはれ」を知る女性と言う意味では、道徳的に非難に値することではなかった。

――という文だったのですが、私としては、寡聞にして知らぬことばかりで、(藤壺の「輝く日の宮」の巻があったらしいと言うことだけはきいておりましたが)、なかんづく、藤原氏の女性の話であったものを、紫式部が王氏の話に書き換えた、ということは大変な驚きでした。

まだ、頭の中がすっきり纏まっているわけではないのですが、上東門院が入内後10年ほどは子供に恵まれず、定子の遺児の敦康親王を手元にひきとって慈しみ、父道長が彰子の実子を立太子させようとした時には、強く諫言もしたようです。これを14歳の敦康親王に心奪われた26歳の彰子の道ならぬ恋というのは、難しい、とも思われますし、よそよそに見る彰子の性格的な感じから「もののあはれ」ねぇ、と考えてしまいます。
いずれにしても、紫上を書く頃には、それなりの自分の考えがまとまっているのでしょうから、ここでは、この文の紹介にとどめておきたいと思います。





次ページへ/表紙へ