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5月月11日(火)「藤壺と桐壺更衣−桐壺帝との愛」

このところ、源氏付いて、あちこちひっくら返して読み散らかしているのですが。

「桐壷帝」と「藤壷」の関係って、あまり書かれていないのですよね。
私はそれがずっと不思議でした。
「藤壷」って本当に「桐壷帝」から愛されていたのかしら ?
勿論、大事にされていたことはあちこちに書かれているし、よく分かるのですが
果たして愛されていたかというと?????

それをいうなら、まず・「桐壷帝」と「桐壷の更衣」との愛の大きさ、確かさに
触れなくてはならないのですが、これは
円地文子氏はじめけっこう書かれているのです。
四面敵だらけの中で、「わが身はか弱く、ものはかなきありさまにて」
「かたじけなき御心ばえのたぐいなきをたにてのみまじらひたもふ」

これは「平家物語」の「小督」などと大幅に違うじゃん、と思ったのは、中2くらいで小島剛汐の漫画(その頃は劇画とはいわない!)で、「小督」の下りを読んだ時から感じていましたが、
(後年、ちゃんとゼミで「平家物語」やった時には平家の女性全般とも違う強い恋の意思を感じました)
その頃は、桐壷の巻は、源氏の出生を華やかに描くための「前説」
みたいな扱いが圧倒的で、私自身もそう深く考えなかったのです。
しかし、後年、円地文子氏の「源氏物語私見」等を読んで、あぁ、やっぱり、と手を打ったのです。
円地文子氏は、「私見」の中で
「これは、単に帝と寵姫との間の、愛を与えるものと受けるものの関係ではなくて、愛し合う二人の男女とそれを許さない周囲の厚い壁との間に醸し出される、きらびやかではあるが暗い闘争の劇であるということだった。」と述べ、
「更衣は愛されたには違いないが、愛されることだけに生きたのではなくて、自分も帝を愛し、愛すことの深さによって他から軽蔑されたり迫害されたりする苦しみを精一杯耐えて、宮仕えをつづけたのである。」
と続けています。

また、そうした理解を援ける一つの例として、更衣の死に先立つ別れの場面で、残していく子供のことより、二人の愛の名残を歌っていることに触れて

帝「『限りあらむ道にも、後れ先だたじ』と契らせ給ひけるを、さりともうちすてては、え行きやらじ」とのたまはするを、女も、「いといみじ」と見たてまつりて、
更衣「かぎりとてわかるる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり
いとかく思う給へましかば」と息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど・・・
――と原文を引用した後、
「とあって、ここに更衣の言葉として、自分のあとに残して行く幼い源氏に対する母としての悲しみや不安は、一言も語られていないのである。」
「更衣の場合にしても、帝との愛情が切羽詰ったものでない限り、ここに自分の生んだ幼児への名残惜しさが顔を出して来るのが自然なはずである。それを敢えてさせないないところに、この心憎いまでに行き届いた作者は親子の情よりも、恋愛感情の強さを強調したかったのだと思う。そうして又、この稀に深く結ばれた二人の愛情から生まれ出たものとして、光源氏の魅力がこの世のものとも思われぬほどに輝かしいことが、当然予約されてもよいのではないだろうか。」と結んでいます。

2000年3月24日付記
去年の秋、たまたま本屋の立ち読みで、東大教授の藤井貞和氏の「源氏物語入門」という本で、
「聞こえまほしげなることはありげなれど」という原文の解釈で、桐壺更衣が言いたかった事は、
「更衣が、父である故・大納言の強い遺志を受けて宮仕えに出た」という事実を踏まえ、
「たんに光宮の将来の安定を帝に託したばかりか、その将来の栄達を、つまり春宮の位とその延長上の天皇の位とを幼児の為に希望しているのだということは、明らかだといえるのではないか。」と述べています。
これを読んで、私は、学者なんてなんと味気ない考え方をするものだろう、と思い、ああ、私はただの源氏ファンでよかったなぁ!!と多いに一人で納得していたのです。

ところが、年が明けて、Mori氏のBBSで、Sakura氏からの瀬戸内寂聴著「女人源氏」の紹介があり、やはり、「聞こえまほしげなることはありげなれど」の解釈を「光君を皇位につけて欲しい」という意味にしている、ということだったのです。
それに対してMori氏も「私も『光君を皇位につけて欲しい』と言う解釈は斬新で新鮮だった。」とおっしゃるのですよ。
(ついでながら「女人源氏」の女房が語る形式について、、Moriさんは「『女人源氏』といえば、私はああいう風に女人の一人称で『源氏物語』を綴っていく、女人の側から解釈していく、というのを長年やりたいと思っていた。しかし、既にやっている作家さんがいらっしゃつたので残念だ。悔しいなぁ。」とおっしゃつておいででした。それについては、まだ後日)

Oh My God!寂聴氏がそんなことおっしゃつてんですかぁ〜!?
おまけにMoriさんまで!?Moriさんよ、あなたもか!?という心境ですが、それでも私はそうは思えないのです。
一期の間際にそんな天下ひっくり返すようなこと言える玉なら、更衣はいびり殺されやしませんて!!
ま、言いたいことがありそうだが言えなかった、ということなのですが、それにしても、、あの状況下、ちらりとでも、更衣にそんなことが考えられたでしょうか。

その後、寂聴氏の「『源氏』はおもしろい」という対談集を入手して読んでいたら件の記事が清水好子氏との対談の中に出てきまして、
清水 ―前略―瀬戸内さんの「桐壺」で感心しましたのは、桐壺更衣の最後の言葉で、光君を皇位につけて欲しいと言わせていらっしゃるところ、。あそこは大層、示唆的だと思いました。
瀬戸内 あれは、清水先生の注釈からヒントを頂きました。更衣が帝とわかれて行く時に、「聞こえまほしげなることはありげなれど」とありますね。あれは、もっと愛して欲しいとか、あの場面でそんなことを言うわけはないでしょう。それは何かな、と考えて、そこに思いいたったのです。
とおっしゃってます。更に、
瀬戸内 桐壷更衣の立場まで行ったら、あの当時はそう思いますよね。
清水 はい。でも、私たちはそこまでよう言わんのですよ。身分や周囲の情勢を見合わせて。
瀬戸内 更衣の母の思いや、故・大納言の遺志を考え、それにもうひとつ、更衣自身の弘徽殿の女御に対する復讐心という点から、一歩踏み込んだのです。
というわけです。
(この対談は1988年のものです。先の藤井教授の本は1995年の著作ですが以前に出版している説も収録してあるそうです。)

勿論、故・大納言の遺志はそうでありましたろう。また、更衣の母も若宮の臣籍降下の報に「慰むかたなくおぼししづみて」逝去してしまうのですから、それなりの期待はしていたのだろうと思います。
しかしながら、更衣本人が、この子を帝に、と考えていたのでしょうか?

更衣とて、勿論最初は父の遺志を貫くため、宮仕えに出たのに違いありません。さりながら、あれほどの逆風の中、一人の男、一人の女として強い絆に結ばれたからには、果たして帝位というものは、どれほどの魅力があったでしょう。
かえって、この恋人が帝ではなく、自分も父の遺志などに縛られる身でもない、ただの貴族の男女であったなら、という思いをひたすら抱きつづけていたのではないでしょうか。
まして、一の御子はバックも強く、たとえそれを超えて我が子が東宮に立ったとしても、それは、今の自らと同じような、いえ、それ以上に険しい荊の道を歩ませることになるのはわかり切っています。
そんなことをあの優しい桐壷更衣が望むでしょうか。

更に、考えられることがあります。それは、女が男の今後を案じている、ということです。
桐壺帝は更衣を愛しすぎたが為に後宮のひいては廟堂全体の反感を買っています。殊に弘徽殿一派(右大臣一派)の恨みは深いものがあります。
更衣は自分の死後も、帝が弘徽殿女御に心を戻すとは考えられません。それどころか、自分の死の責めを弘徽殿女御に帰するようなことをして弘徽殿女御と決定的な破局を迎えるとしたら、ということはとりもなおさず、桐壺帝の帝位を危うくすることに他なりません。
この時は、まだ一の御子も東宮には就いていませんが、だからといって東宮の地位が帝の意志のままということはないのです。たとえ帝であろうとも、実力者の意向を無視することは出来ません。
思えば、六条御息所の夫たる前坊はなぜ東宮を辞したのでしょうか?弘徽殿女御腹の一の御子が生まれることによって右大臣の執拗な干渉があったのではと考えるのは無謀でしょうか?
(だからこそ、あの頭中が御息所のサロンに顔出ししていないのではないか?ということは六条御息所のところで触れたいと思います)
勿論こんな心配をしているなど、桐壺の更衣は口に出すことは出来ません。それを言う、ということは弘徽殿女御を批判することになります。ただただ、愛する男の将来が明るく平和であることを祈るのみです。
女の思いは男にも伝わりました。自分の死よりも、我が子のことよりも、女が男の今後を案じていることが、今にも息絶える間際にも案じつづけていることが。男はただ女を抱きしめることしか出来ない、女はその男の胸に顔を埋めて泣くことしかできないのです。
それこそ、「聞こえまほしげなること」で遂には「聞こゆることなく果敢なくなりぬ」女の遺言だったのではありますまいか。

それに、もうひとつ、この「桐壺の巻」が「光源氏」という主人公を生み出すための発端とするならば、その母たる人は、権力に恋々とすることなく、円地氏が「源氏物語私見」で言う如く、あくまでも清らかで美しく純粋な愛に生き、「愛の殉教者」となった人でなくてはならないと思うのです。

又、今、この一期のわかれに「この子を帝位に」という更衣なら、必ずや、後々に御霊として出てくるようになるのでは。当然、須磨の嵐の夜に明石に行けというのは、桐壺帝の霊ではなく、更衣の霊でなくてはおかしくなるのでは、と考えます。大体明石入道と桐壺更衣はいとこ同士なんだし、ねぇ・・・(^_^;

そこ、ここに現れ、源氏の守護霊となるのが桐壺帝であり、更衣ではない、ということは、紫式部は、桐壺更衣を母としてではなく、あくまでも桐壺帝との「愛(ホントは恋だと思うけど)に殉じた女」として描いたのではないか、と思うのです。

ちょっと、甘すぎますかねぇ!? まぁ、いいや「私の源氏物語」ですからね。

(六条御息所の背の君たる「前坊」の排太子事件に関しては、「賢木」の巻での御息所の入内の歳から計算して、右大臣家との関連は無理、という説があるそうですが、私はそうは思いません。それに関しては2000年5月23日「六条御息所-10」にて)

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