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8月9日(月) 「花散里−4」私の花散里


困りましたねぇ。この間、調子に乗って書きすぎて、突っ走ってしまい「花散里の巻」完了チョンチョン!
という雰囲気にしてしまいました。書いてるうちに自分の文章に酔ってしまう悪癖が出てしまいました。こうなると、自分でも、どこに突っ走っていくのかわからなくなって、主題ボケるわ、
自説とかけ離れたところにすっ飛んでって着地してまうわぁ、なんだぁこりゃ〜ということになるのです。
ま、今回はそうかけ離れていることもないのですが若干の異論がありまして・・・
まぁ、前回のあれは、瀬戸内寂聴氏の紹介によるユルスナールという女流作家の描いた「花散里」像であつて、「花散里」が自分自身をどう考えていたか、というところへの導入部として書き始めたのですが大いに大賛成で、かくもあらむとぞ思い、私自身が盛り上がってしまいました。

でも、今回は、「私の花散里像」ということで−−−−
まず、「私の花散里」というのは、「花散里の位置」等で書いたようにかなり、理知的でクールです。簡単にいえば「ハムレット」の「ホレイショー」の役回りだと思っています。
「ハムレツト」が馬鹿か利口かは、「おやすみなさいませ、ハムレット様、どうぞやすらかに」という幕切れのホレイショの一言にかかっているのだそうです。

勿論まだ、シェークスピアは生まれていませんし、イギリスとお付き合いがあったわけでもありません。それにしても作家の癖として、主人公の傍に、見えつ隠れつしながら、その生涯を見守り、事終わる時、幕引き役を勤める人物を設定しているように思います。始めの頃は、それが惟光か、とも思っていたのですが、彼は途中応分の出世を遂げて、姿を消します。

ひとり身の気楽な貴公子のころから、最愛の紫上に取り残された老残の身を送ってもらうのは、もはや、花散里しかいないのです。
だって、子ども達(夕霧にせよ、明石中宮にせよ、玉鬘だとて、帝位を譲った冷泉院にしてさえ)今に生きる人達で、源氏とともに生きているのではありません。
明石御方はとうに、紫上一辺倒の源氏を見限って、中宮になった娘に夢中です。朧月夜は出家し、空蝉もとうに尼です。末摘花は問題外。
この日、この時、源氏の傍に残って、源氏と生きているのは花散里しかいないのです。

「六条院の女主人」は確かに紫上ではありましたが、源氏の子を育て、六条院の緩行地帯となつていたのは花散里でした。玉鬘を預けることも彼女だからできたのです。夕霧をあずかるのは花散里の政治だったとしても(とてもそうは思えませんけれど)、玉鬘の場合など、他の女に生ませた子供が見つかりました、あなた面倒みて下さい、といわれて「つきづきしく後見む人なども、こと多からでつれづれに侍るを嬉しかるべきことになむ」なんて、誰が言いますか。まして相手の素性もわからない、花散里は痩せても枯れても大臣の娘ですもの。花散里だからこその言葉であり、それをすんなり受け取れるのも花散里ならではなのです。

「初音」の正月訪問セレモニーでも、「夏の御すまひ見給へば、時ならぬけにや、いと静かに見えて、わざと好ましきこともなく、あてやかに住みなしたるけはひ見えわたる。年月にそへて、御心の隔てもなく、あはれなる御なからひなり。今はあながちに近やかなる御有様ももてなし聞こえ給はざりけり。いとむつまじくありがたからむいもせの契りばかり、聞こえ交わし給ふ。」とあって、後に出てくる冬の御殿の明石御方の財力と高尚な趣味で人工的な粋を尽くしたしつらえとの差異が際立ちます。

「景色の女君」から、源氏の内懐深く源氏を支える「叙情の女君」へ。
そして、彼女は自己の役割を確と認識して、出過ぎず、ひっこまず、卑下することなく、偉ブルことなく、優秀な秘書として源氏の傍らに添っていたのです。
早くに肉体的な繋がりは失せ、その代わりに人生の共同経営者のような信頼に結ばれていったのでしょう。勿論、なれ初めのころは源氏の訪れが間遠である時などは物憂く辛く思ったこともあったのでしょう。、けれど、二条の院で、明石流謫から戻って、旅先の出来事に紫上の顔色をうかがって彼女への夜離れが続いたときも、六条院に同居して嫡子を預けられたときも、ことさら、嘆かず、有頂天になることもなく、淡々と、自分のおかれた位置と役割をこなしていったのです。

そして、「幻」の巻では、花散里は「夏の御方より、御ころもがへの御装束奉り給ふとて、」という一行と歌のみのやりとりで、訪れてどうこうという消息がなかつたことも、
その控えめな彼女の色恋ではない存在を伺わせるものだと思うのです。
(この巻はかつての「生臭い関係」を精算--決して浄化、昇華ではない−−するような巻だと思うので)

そして、本来何の記述も無いという「雲隠れ」に、作者はどれほどの思いを込めたのでしょうか。
紫上に取り残されて「生きた骸」となった源氏を、どうやって、極楽往生に導こうとしたのでしょうか。まぁ、源氏に極楽往生が許されるとするなら、ですが。
その時、花散里はどういう台詞で源氏の人生の幕を降ろしたのでしょう。それは、本来、作者紫式部が、源氏に送る言葉でもあったはずです。

「おやすみなさいませ、光の君様、どうそやすらかに・・・」

それとも、・・・ありすぎて、尽きない言葉を、一言も無い巻の名だけが伝えています。

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