前ページへ/表紙へ

8月23日 「秋好中宮」

「朝顔ー元斎院」が出たついでに「秋好中宮ー元斎宮」のお話を。
といっても、このあたりも「景色の女君」で、ホントに書くことなくて−−って思うことがなくて、
ただ、六条御息所の娘ってことと、この人が「秋が好き」ってことから、
源氏が、紫上の「春が好き」に相呼応させて、六条院の造成を思い立ったということです。

このひとも、斎宮とはいえ、内親王といっても孫王で、東宮だつた父に4歳で死別して、
六条御息所の、当時の未亡人としては、例の無いような、ソフィスティケートされた
華やかなサロンで育ったのですが、その主宰者たる六条御息所の娘にしては、
ちょっと才気がたらん、と思うのはわたしだけでしょうか?
まぁ、そのぶん、穏やかといえばいえる。
斎宮として、伊勢へ下向の挨拶に朱雀帝に拝謁するときも、
「斎宮は十四にぞなり給ひける。いとうつくしうおはするさまをうるはしう仕立て奉り給へるぞ、
いとゆゆしきまでみえ給ふを、みかど、御心動きて、別れの櫛奉り給ふほど、いとあはれにて、
しほたれさせ給ひぬ。」とい文があり、これは後の藤壷と源氏の謀の複線ともなる文章なのですが、
斎宮のひとかたならぬ美しさを述べています。
その後の出番は、朱雀帝から冷泉帝の御代替わりに斎宮の職をとかれて、帰郷した時はもう、既に
臈たけた女性として成長していて、御息所の件の遺言に戦々恐々となった源氏が藤壷と謀って
冷泉帝の女御として入内させ、冷泉帝の絵画好きに乗じて
「斎宮の女御、いとおかしう画かせ給ひければ、これに御心移りて渡らせ給ひつつ、描きかよはせ給ふ。」
結局、源氏、藤壷(なんたって冷泉帝の母ですからね、源氏だって実をいえば父ですからして)のバックアップがものをいって、9歳も年上で、藤原氏でもなく、皇子もないまま中宮に立つのです。
これぞメルヘンの世界のお話ですが。

この前斎宮入内の折りには、朱雀帝のちよっとしたレジスタンスがありまして、
前にも書いた通り、朱雀院は、まだ帝の時、伊勢下向の折り見た斎宮の美しさか゛忘れられず、
帰京した六条御息所にしきりと、朱雀院への入内を促していたのです。それが、件の遺言で俄かに
父親顔した源氏に冷泉帝への入内を謀られてしまい、口惜しくも思われて、その入内の日に、
溢れるばかりの贈り物をするのです。
「おとどみたまひもせむに、と、かねてより思し設けけむ、いとわざとがましかめり。」
これは、めずらしい朱雀院のレジスタンスですよぉ。
ずっと負け犬だった朱雀院が父子相揃って落飾を強行する女三宮の場面が唯一の抵抗場面ってことになっているけれど、ここだって結構激しい意志が感じられると思います。
それに、さすがに、わが身の色恋沙汰に引き比べて気の毒になり、
この贈り物に対する斎宮の御礼の歌を源氏も見ることはできないのですよ。ざまみろ!

それにつけても、好きごころは相変わらずで、結局、自分の息子の嫁っていってもいい立場の秋好中宮に
源氏は言い寄るのです。これは、もう、エロ親爺以外何者でもない!
で、さすがに、そこのところは、玉鬘とはちがって、秋好中宮は、うまくかわしてそれ以上のことはいわせないのだけれど・・・そのへんは流石、とも思いますが、ねぇ〜。

紫上の亡き後、呆然としている源氏のもとに冷泉院の后の宮(秋好中宮)から弔問の歌が届き、
「いふかひあり、をかしからむ方の慰めには、この宮ばかりこそおはしけれ、」といわせるのですから、
やはり大変なものなのでしょう。(ワタシャようわからんよ)
でも、葵上が亡くなったときには朝顔の慰めを求め、紫上の死後は、秋好中宮に慰められて、
「この宮ばかりこそ」とは紫上も浮かばれないような気が致しますが・・・

円地氏は「秋好中宮は、つまり御息所の性格から、憑霊的な烈しさをぬきとった情緒的な貴族女性である」と言われています。
きっと、その烈しさの抜き取られたところが、わたしとしてはものたりないのですなぁ。
紫上と「春秋の争い」をさせるくらいですから、作品上も重い存在ということになるのでしょうが、それについては円地文子の説で面白いものもあるのですが六条御息所のところで触れたいと思っています。

私にとっての秋好中宮は、うん、気の抜けたビール、開栓後3日くらいたったワインってとこなのかな?

次ページへ/表紙へ