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8月27日(金) 「源氏物語の端場」というもの

円地文子著「源氏物語私見」の中に、「源氏物語の端場(はば)」という一章があります。
端場というのは義太夫用語で、「その次に一段の骨子となる劇のクライマックスが来る前とか、
そういう緊張した場面の間とかに客の心をときほごす軽味のある場面が必要なので・・・」とあり、
源氏物語を訳している中に「数多くではないけれども、この浄瑠璃の端場に類する場面が、ちょいちょい
顔を出してくるのに気付いて、面白いと思っている。」とあります。

こういう文章に当ると、無性に嬉しくなってしまいます。
私如き一ファンでさえ、源氏物語の構成上、末摘花とか、源典待、近江の君とか、俗に言う「笑える場面」
には、何がしかの「作者の意図」を感じているのですから、円地文子氏のような専門家(?)が、
それなりの分析をするのはあたりまえのことなのです。
でも、その表現の仕方か゛一般人には思いつかない「端場」という言葉があって、
うん、やはり一味違うのう!と感激してしまうのです。
構成上の緩急の取り方だとか、動と静だとか、喜怒哀楽の場面処理だとかという言葉では言い表せない
「場面の空気」が「端場」という言葉から感じられて、やはり、「源氏はこの人だ」−−源氏物語の訳本を読むなら、「円地源氏」だ!と思ってしまうのです。
訳文の柔らかさ、ちよっと堅い〜骨っぽいと思われるところをも含めて、
「私の源氏物語」は円地文子抜きには語れないのです。

ただ、昔、挫折した谷崎潤一郎の源氏物語の新訳本が出ていて、こちらは、前のに比べると随分読みやすそうなので、
もう一度、チャレンジしてみたいとは思いました。その結果「谷崎源氏こそ源氏本だ!」となるかも。
もっとも、谷崎氏が存命中に「狭衣物語」だつたか、編集者が、新訳の話を氏のところへ持ち込んだ時、
「今、どんな訳が出てるの?」と問われて、「円地訳の狭衣物語」を見せたところ、
「これだけの訳が出ているなら、僕が訳すことはない」と断ったそうですから、まず、実力伯仲とみてよいのでは、と思っています。

というわけで(前振り長いなぁ!)、近江の君の話から。
HNをつけるとき「近江の君」にしようかと思ったくらい、私は彼女を気に入っています。
といいながら、長くなりそうなので、次回にします。

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