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10月28日(木) 「女三宮−2」女三宮の出自

女三宮の白眉というのは出産後の出家と、それに先立つけむり較べの「おくれべうやは」ですが、その前に、前回の寂聴氏の「女三宮同情論(?)」を受けて、その出自から。
女三宮は「宮家のお姫様」でも書いたとおり、朱雀帝の第三皇女、母も桐坪帝の先帝の皇女で藤壺の女御(例の「藤壺中宮」の異腹の妹)と呼ばれた方ですから毛並みとしては最上級です。
しかも、父帝(朱雀帝)が、内侍(朧月夜)に夢中になって、その母たる藤壺の女御を、后にもたつべき位がありながら、粗略にしたまま運命を恨みつつ若死にさせてしまったという後ろめたさからか、この皇女に限ってえらく可愛がった、という「鍾愛のヒメミコ」なわけです。

で、そこがおかしい、というかようわからんところなのですが、いくら長年の夢、病がちなからだを持て余してといってもですそ、そ〜んなに可愛い娘をホッタラカシテ出家しようと思うんかい?
あの時代の常識として出家するということは、生きながら死ぬ!というか、浮世・世俗とは全く絶縁してしまう、まぁ、今の出家とは偉く観念的に違うわけですよ。
それでも、朱雀院は鍾愛のヒメミコちゃんご出産の時には、遂に山を降りて、女三宮の見舞いに駆けつけてしまうでしょ。それくらいなら出家なんぞせんでもええやないの?と思ってまいますやン。

寂聴氏は「思えば女三宮は、源氏に降嫁した時点で、すでに天涯孤独に等しい境遇に立たされていたのでした。そうした立場を暗く感じ取るような心の翳りのない天真爛漫さは、彼女の育ちの良さにもよるものでしょうが、女三宮のもって生まれたおおらかさからくるものではないでしょうか。ー中略ー女三宮がライバルの紫の上に逢って、すぐ、相手を、とても若若しくて気立てのよさそうな人だわ、と信じ込む素直さは。ふと、涙ぐまれるほど稀有なものではないでしょうか。」(同上)

そんな女三宮に繰り出す応援団は円地文子との対談近藤富枝氏が
円地「あそこへ出すには、ああいうひとがよかったんでしょうね。一番他愛のない人に、源氏は挫折感を
味わわされるわけでしょう。
近藤「私は女三宮は好きですね。ほんとにいじらしくて、あのへんを読むと、どうしても源氏を憎みたくなるんです。(笑)。それと、やっぱり柏木もかわいそうで・・・・。

となります。私としては、寂聴氏の天涯孤独というのは、源氏にも紫上にもあてはまるもので、この物語のキーポイントにもなるものだと思うので、紫上のところで述べたいのですが、天真爛漫さとは、心に翳りを持たないこととは違うのではないか、あの寂聴氏か゛そんなこというのかいな?と思うのです。
もっとも、この寂聴氏の本が書かれたのは昭和57年ですから、今はどう考えていらっしゃるかは分かりませんが、心の翳りを秘めてなお、天真爛漫であるように振舞える紫上を傍に配しては、やはり見劣りするのは致し方ないのでは、と考えます。

あぁ、「おくれべうやは」は次回ですねぇ。ナントか今月中にこれ決着つけて、六条御息所に入りたいと思っているのですが・・・

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