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9月26日(木)「国文学研究資料館連続講演・百人一首」井上宗雄立教大学名誉教授

国文学研究資料館には、「源氏物語・賢木」での六条御息所の年齢の表記について、「もり語りcom.」で、伺った時、Sさんから、それについての論文があることを教えていただき、国文学研究資料館での索引の仕方を教わって、そこから、時々覗きに行くようになりました。
その行事案内に、いろいろ聞きたい講演がたくさん載っているのですが、私のような一般おばさんは、参加できないものだと思い込んでいました(^^ゞ今年も「百人一首」の5回連続講演があると聞いて、いいなぁ、と指をくわえていたのです。
ところが、今年、「源氏の部屋」さんの行事案内で、その案内記事を見て、アララ、ここで一般に案内しているからには、応募してもいいのかな?とオソルオソル電話してみたら、OK♪ということで、応募したら、見事当選してしまいました\(^o^)丿
ただ、その応募ハガキにもちゃんと書いたのですが、第二回と最終回はいかれないので、それが残念なのですが(^_^;

それと、やはり、常識程度にしか知らないものは聞いているだけで精一杯、ということを今回痛切に感じました(^_^;
珍しい資料をたくさん提示して頂いて、大変勉強になり嬉しかったのですが、資料に目を留めているとメモが取れないし、資料ちゃんと読まないと、講演の意味がわからないし・・・と、ジレンマでした(^_^;
でも、やはり知っているはずのことも、きちんと聞くと、耳新しいことが多くて、ほんとに勉強になりました。百人一首は侮れません!!
痛切に感じましたm(__)m

え〜、まず、国文学研究資料館の松野館長からのご挨拶♪

「百人一首」は日本文学の骨格を成すもので、文化史的にも、非常な意味を含んでいます。カルタの普及など、多方面の文化現象に繋がるものです。
「井上先生」は、「歌留多」の方の名人でもあり、最近まで競技にも出ていた方です。身体機能として、遊びが身についている方です。(笑)
私が東北大の先生をしていた頃、「百人一首」のサークルの顧問をしてくれ、と言われて引き受けたが、自分としては文科系のサークルだと思っていたが、あれは体育部のサークルです。でも、今回は文学の中の百人一首という意味での捉え方をしてもらいます。(笑)

第一回  百人一首の解釈について―一筋縄では行かぬ作品群―

最初に資料説明
一枚目 「小倉百人一首」 番号・並び順は一般的に取り入れられている番号――「小倉百人一首」というのは、鎌倉初期(1235)前後に、藤原定家によって選ばれた選歌集、アンソロジー。「名月記」の中に記述があります。
二〜三枚目 各歌についての出典と評価一覧表――「百人一首」の歌はほぼ勅撰集入集のものです。「百人一首」成立以前に「百人集歌」という似たようなアンソロジーが編まれたが、関係はわかりません。公任や俊成の選集など、多くの文献が挙がっているものは、その時代までに相当の評価を集めていた、ということです。
四枚目 (今日取り上げる歌とそれについての資料。)

主要参考文献
有吉 保   『百人一首全訳注』 (講談社学術文庫 ’83)
久保田淳   『百人一首の手帖』 (小学館 ’89)
同編      『百人一首必携』 (学燈社 ’82)
吉海直人   『百人一首の新研究』 (和泉書院 ’01)
島津忠夫   『百人一首』 (角川ソフィア文庫 ’01、 初版 ’69)

私の専門は中世の和歌から鎌倉・室町の和歌を専攻しています。「百人一首」は、多くの人たちの関心を集めるもので、今日もこれだけの方たちがお集まりになった。
(一番最初に、資料館の事務局から、この倍以上の応募があって、抽選に漏れた方たちが多くいらっしゃるとの事でした。)
勅撰集から切り離して―勅撰集の中では、前後の歌との関係から詠まれるが―一首の独立した和歌として取り上げると、別の意味を持ちます。定家がどういう風に解釈して、その歌を取ったか、定家の鑑賞の仕方。定家が解釈していた歌の解釈と、勅撰集に置かれていた歌の解釈は往々にして違います。また、その勅撰集は自家集などから取ったものが多いのですが、そこでの解釈とも違っています。

例えば、私は、「君が為 惜しからざりし 命さへ・・・」という歌なら、戦中に詠んだ時「天皇への忠誠心の歌」かと思った。

定家の解釈に従って「百人一首の歌」を解釈しようとする学者達も多い。
昭和44年に、島津忠夫さんが「定家の解釈と勅撰集に基づいて解釈した場合との違い」を出された時は、ヤラレタ、と思いました。

私達の時代の学者は、作者がどういう場面で、どういう気持ちで詠んだか、どういう言葉がどういう風につかわれるか、時代における表現の問題が中心です。
最近は、解釈とはいろいろな形がある。作者の意図を超えて味わうことによって、優れた作品として解釈する、という傾向です。

 「夕花や ここにも一人 月の客」という向井去来の句に対する本人と芭蕉の批評について、去来はひとりで月を見ている人を「客観」視しているが、芭蕉はここに一人いる自分が月に相対しているという「主観」で詠んでいる。
筆者注・芭蕉の読み方の方が深い、とおっしゃりたいのだと思います。私も俳句や歌は「読み手の(能力)次第」と思っていたので、ワオ♪)

緒方努さんの「作品往来」では、名作には様々な優れた解釈がある、といっています。

「百人一首」の中ではNo.1〜6までは万葉歌人の歌です(No.5の猿丸は除く)。No.3は万葉集には入っているが、人麿の歌ではない、別の人ではないか、と考えられます。(筆者注・ええっ?それ、常識なんですか・・・知らなかった(^_^;)

2.春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山   持統天皇
筆者注・万葉集には、――春過ぎて夏来たるらし白細の衣乾したり天の香具山―読みは同じ

4.田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ   山辺赤人
筆者注・万葉集には――田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

新古今の選者が万葉集と違えたのではなくて、当時のいくつかあったうちの一つの詠み方とする。
事実と違う写生ー写実を中心にする必要があるとするよりは、もっと自由に詠んだとする。
「百人一首」はくだらぬ、という呪縛から解放される。

筆者の呟き―そうですねぇ。中学・高校で習うたびに、万葉集の素朴で力強い表現と、装飾過多になって歌詠みのテクニックに崩されてしまった歌、としてこの二首は紹介されます。そのたびに、うん、そうか、という刷り込み現象が起こったのか、やはり、そういう目で見てしまいます。ただ、口調が滑らかなので、個人的には百人一首の詠み方のほうが好きです(^^)それと、「百人一首」のレベルのバラツキというのはよく話題になりますし、それで推理小説もできるくらいですから(^^ゞそのへんから「百人一首はくだらない」という印象も出てくるのでしょうか。でも、今は学校の先生方も「百人一首を覚えれば古文の基礎ができる、と推奨していますよね(^^))

5.奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき    猿丸大夫

<参考資料>として  猿丸集「あきやまのもみぢふみわけ・・・」
           三十六歌仙・猿丸大夫「奥山の・・・」

      秋山は紅葉ふみわけとふ人も声聞く鹿の音にぞなきぬる   (拾遺愚草員外541「山」)定家
      秋はただなほおく山の夕まぐれもみぢふみわくるしかのねもうし(明日香井和歌集408元久2年正月千日影供百首)雅経
      さをしかのもみぢふみわけたつた山いく秋かぜにひとりなくらん (同972最勝四天王院名所障子承元元年1207)
      わがやどの<に>もみぢふみ分けとふ人<物>もみやこになれぬさをしかの声 <高松本>(壬二集1224慈鎮四季百首)家隆
      秋山を ・・・・                 土御門院御時歌合に承明門院小宰相(家隆女)
      たつた山あかつきさむき秋風にもみぢふみ分けしかのなくらむ  (万代集秋下1091)
      ちりつもるもみぢふみわけわがやどの鹿よりほかにとふ人もなし「閑居落葉」(壬二集1597九条前内大臣家百首)

猿丸大夫というのは、伝説上の人物で、この歌もいかようにも詠めます。

「新撰万葉」での解説―「秋山寂寂葉零零。糜鹿鳴音数處聆。勝地尋来遊宴處。夭朋夭酒意猶冷。」(宴の喧騒から、仲間を離れていった人が鹿の鳴き声を聞いて寂しさを感じる―ともなく酒なくなおすさまじ)

まず、「紅葉ふみわけ」、踏んでいるのは鹿か人か?「古今集では人」といい、「新撰万葉では鹿」という。
「奥山に」というなら「人」、「奥山の」というなら「鹿」・・・私も結論が着かない。
新古今時代に分裂した解釈があつた、と思われる。「古今集では人」が踏む。平安末期〜鎌倉初に「楓紅葉を踏む鹿」と「人が踏む」という分裂がおこつた。定家は「紅葉を踏み分けていたのは人だ」という解釈をしています。

「紅葉」については、「楓の紅葉」ではなく「萩の黄葉」だという説もあるが、どれをみても「秋の下」に入っているので、これは、「楓の紅葉」だと思います。

下の句で「声聞くときぞ秋は悲しき」という、人も、紅葉を踏む、鹿も紅葉を踏む、という「Wイメージ」がある。
吉海(直人)さんは、「秋は悲しい」という概念が平安初期には確立されていた、という。
「秋の寂寥感」という日本的美意識を「本意」として定家が高く評価したのではないかと思います。

―(筆者の呟き)―
いやいや、これは、類例の引歌(こういう場合も引歌でいいのかしら)がお宝!私の知っている引歌は、定家と家隆しかありませんでした。それに楓紅葉と萩黄葉の差ね!季節が違うんですねぇ・・・(^_^;「百人一首、うん知ってる、知ってる」なんて、恥ずかしい話でしたm(__)m
れ以前に、「紅葉を踏み分けているのは、人か鹿か・・・」など、二説あるのは知っていても、そんなん、掛詞になってるに決まってんじゃん、などと偉そうに考えていたのですが、「に」と「の」の助詞によって、二説に分かれる、というところから考えて行かなくては、そう簡単に掛詞などとは言えないのですね・・・大体「掛詞」という表現の仕方はできないのか(^_^;
ただ、言い訳的に言わせてもらえば、素人ですし・・・まぁ、それを言っちゃあおしまいよ♪なんですが・・・。

6.鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける      中納言家持

<参考資料>として
新古今集新体系注 田中裕・赤瀬信吾による
鵲が架けたと言う大空の橋に霜が置いて白々とさえているのを見ると、夜もすっかり更けたことだ。家持集・冬歌
○かささぎのわたせる橋「かささぎの橋」に同じ。奥義抄・中「天の河に鵲といふ鳥の羽をちがへて並び連なりて橋となることのあるなり」と注し、八雲御抄五は「天河なり」とする。多くは七日の場合であるが、夏冬にも天の川の意で詠む。源流はこの歌か。
▽天の川の白々と見えるのを霜が置くと譬えたもの。

「大和物語」125段
泉の大将、故左のおほいどのにまうでたまへけり。ほかにて酒などまいり、酔ひて、夜いたく更けてゆくりもなく物したまへり。おとどおどろき給(ひ)て、「いづくに物したまへる便りにかあらむ」などきこえ給(ひ)て、御格子あげさはぐに、壬生忠岑御供にあり。御階のもとに、まつともしながらひざまづきて、御消息申す。
   「かささぎの渡せるはしの霜の上を夜半にふみわけことさらにこそ
となむ宣ふ」と申す。あるじの大臣いとあはれにおかしとおぼして、その夜夜一夜大御酒まいりあそび給て、大将も物かづき、忠岑も禄たまはりなどしけり。

新古今に「家持」とあるが「家持」ではない。(筆者のショック!ひぇー、聞いてないよぉ(^_^;)
「家持集」に取り入れてあった。冬の夜空を眺める天上のロマン。地上から見た冬の空の美しさ。
賀茂真淵の説では、「かささぎの橋」を宮中の御階(みはし)という。「大和物語」からの解釈。
酩酊した定国が時平のところへ現れ〜「御消息申す」。
従者として壬生忠岑が着いている。宮中の御橋(みはし)とはどこにも書いてない。
二星のはかなさと冬の夜の美しさ、振り返って自分の侘しさを詠んだ、という歌です。

―(筆者の呟き)―
てえと、この歌の本当の作者ー詠み人は定国なのか・・・(^_^;
「百人一首」って、時代も結構新しいし、それなりに、確実な資料に基づいて編集されていると思っていたのですが・・・猿丸みたいに「伝説上の」と言うのは仕方ないですけどね(^_^;「百人一首の編者」といわれる家持の歌さえ作者が違っていたなんて・・・ショックだなぁ(^_^;

8.ワガイホハミヤコノタツミシカゾスムヨヲウヂヤマトヒトハイフナリ   喜撰法師

<参考資料>
教長卿云、宇治山ハミヤコヨリ巽ニアタレリ。シカゾスムハ、山里ナレバ鹿スムニヨセテ、然ゾ住スルト我身ヲカケタリ。是ニコモリイタレバ、世間ヲ倦タリト、カノ山ノ名ニヨセテヨメリ。私云、鹿ニヨセムコトハサシモナクヤ。作者ノココロシリガタシ。(古今集注)

此歌の心は、宇治は都の巽にあたれり。しかぞすむとは、然ぞすむと云、しかぞはさぞと云詞也。鹿ぞすむとよめるなど申人あれど、さもきこえず。しかのすまむからによをうぢ山と云べきよしなかるべし。しかに然をよせたりと云ても尚無由歟。(顕注密勘抄)

西行伊勢下りの折に    ここも又都のたつみ鹿ぞすむ山こそかはれ名は宇治の里(西行法師家集606)

万葉集には「宇治」が多く出てくる。奈良時代から「宇治は憂し」。しかし、何時「宇治」が「憂し」と結びついたかは不明です。
「宇治」は、万葉集以前にも、仁徳天皇の兄が、仁徳天皇に天皇の位を譲る為に自殺した場所です。
「宇治」に対するイメージとして、寂しいということ。
平安時代は京都が都として発展して、宇治は別荘地として発展して行くんです。
「宇治」と「しか」が結びつく・・・なぜか?確実とは云えないが、平安後期に「宇治」と「しか」が結びついた、と思われる。

―(筆者の呟き)―
この歌は、初めから種明かしをされて覚えるもので、「鹿が住んでいる訳じゃないんだよ」と言われていたのですが、今日伺えば、やはり「鹿」と「然」が掛詞になっているわけですよね。考えれば、「百人一首」というのは、正式に習う、ということは殆どなくて、大体の歌は家などで歌留多取りをした折々に自然に覚えて行くわけで、意味もきちんとは教えてもらえなかったりするんですよね。それでも私は習字教室で、今思えば、かなり大変な先生に手ほどきして頂いて、仮名文字の稽古として「百人一首」を使ったので、それなりの解説をしていたわけですけど・・・まあ、小学校から中学にかけてですから、記憶も定かではない。先生はきちんと教えてくださったのに覚えていなかったのかもしれません。今回は「目から鱗」みたいなことばかりで(^_^;

9.花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに   小野小町

<参考資料>
〔応永抄・宗祇抄〕―上略―したの心は、花の色はと小町が(わが)身のさかりのおとろへ行きさまをよめり。我が身よにふる眺めせし間にとは、詠する儀なり。世にしたがひ人になびき人をうらみ世をかこちなどするにより、物なげかしくうち詠しなどしてすぐる間に、我が身の花なりしかたちはおとろへゆく()のこころ也。・・・   (有吉保 著)

私の大学時代、2つの解釈―表と裏。古今集と中世の解釈は違う。
「小町伝説」というものがあり、落剥した小町が華やかな中にも不安の仮託。 他にも
 ・島津説―遍照と業平と、季節の歌がないので、これが必要。
 ・吉海説―定家は人の世の寂しさを感じている。
 ・片桐説―退廃・完熟の歌

(筆者注この当たりから、先生も時間が迫っていらして大分焦つていらっしゃつて、見るからに?聞くからに駆け足!!ちょっと、資料に目を留めているとメモが間にあわない(^_^;)

14.陸奥のしのぶもぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに    河原左大臣(源融)

多くの貴族が陸奥に関心を寄せていた、ということを示す歌。新しい植民地の風謡。

15.君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ    光孝天皇
17.ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは    在原業平朝臣

<参考資料>
神世とは神世昔也。神世七代侍り。世の始也。水くぐるとは紅の木のはの下を水のくぐりてながると云歟。潜字をくぐるとよめり。寛平の宮瀧の御幸に、在原の友于歌に、
    時雨にはたつたの河もそみにけりからくれなゐにこのはくぐれり
業平が歌は、もみぢの水くぐるとよめる歟。友于歌は河を落葉くぐるとよめり。其心別歟。今案に、業平はもみぢのちりつみたるを、くれなゐの水になして、龍田河をくれなゐの水のくぐることは、昔もきかずとよめる歟。此友于時雨にたつたの河をそめさせつれば、からくれなゐにこのはをなして川をくぐらせたれば、只同事にて侍歟。友于は行平卿息也。業平逝去之後、舅が歌をかすめよむ歟。
(顕注密勧抄)

島津説―竜田川に真っ赤な紅葉が数多く、その下を真っ赤な水がくぐって流れる。
古今集  水でくくり〜深めにする・・・縛り初め(筆者注絞り染め?
定家は「くぐる」説、水が紅葉の下をくぐる、という説だが、「くくる」という解釈を知っていた。
新古今時代「くくる」「くぐる」という説が多い。

先生も、ここまで、息せき切って、という感じで辿り付き、もう時間が来てしまいました!と残念そう(^_^;で、一応、終了後、事務局がわから、次回より、先生と、皆さんの都合さえつけば、15分くらいの延長を考えます、との発言があり大拍手でした(*^^*)

―(筆者の呟き)―「業平逝去之後、舅が歌をかすめよむ歟。」という意味、お時間があれば、ちょつと詳しく伺いたいと思いましたが・・・「かすめよむ」ということね。「かすむー掠むーこっそり奪い取る、盗み取る」ということですから、業平没後に婿の友于が盗作した、ということなんでしょうかね。でも、本歌取りとか、引き歌なんて、和歌の世界では普通なのに、こういわれるのには、何かワケアリなのでしょうか(^^ゞ

一応、今日触れられなかった二首あり。ご参考までに・・・

21.今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな    素性法師
30.有明のつれなく見えし別れより暁ぎかり憂きものはなし        壬生忠岑




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