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4月14日(月)「吾妻鏡」第三十二

今日から吾妻鏡第一に戻るという日だったのですが、ナント歴任元年(1238年)12月の分が終わってないそうで、そこを先ず片付けなければ、ということで、私たち新入生はテキストがないんだけどなぁ・・・(^_^;
まあ、仕方ない、せっせこノートを取ってきました(^^ゞ

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筆者注―本文中の<>は細字、□は旧字体、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用)

○十二月
○十二日 □丑。降大雪。曙後。北條左親衛相具若狭守以下人々。逍遙山内辺。雉兎多之獲。

―12日癸丑(きちゅう)。大雪降る。 曙の後、北條左親衛、若狭の守を相具い、山内辺りを逍遙す。雉兎多くこれを獲る。
―参考―「12月3日 甲辰 夜半以後雪降る。午の刻に及び天晴今暁北條左親衛鳥立を見んが為、大庭野に行き向かわる。」というのを受けて、の話です。
―12月12日は旧暦ですから、今なら1月半ばです。
―「親衛(しんえ)」というのは、近衛府のことを唐読みで読んだもの。左近衛府・右近衛府とあって左近衛府の長官が北条経時です。時頼の兄で材木座の光明寺開基のパトロンになつた人。
光明寺というのは「関東十八壇林」の筆頭。壇林というのは僧侶が修行して学問するところです。記主禅師という人が有名です。光明寺はもとは佐助ヶ谷にあったのが材木座に移ったんです。ということは小袋坂がもう出来ていて、通行できたということネ。
―このとき、若狭の守は三浦泰村。鎌倉幕府の重要な御家人で、中央からも若狭の国主として任命されていた人です。
―山之内は今の北鎌倉辺りの山之内。当時、戸塚から大船に至る「山之内の荘」という大きな荘園があったんです。もとは和田義盛の領地だったものを和田合戦の後、北条氏が取ったんです。
―雉兎(きじと)、野生の雉や兎が沢山いたんです。

○十四日 乙卯  天変御祈。始行就内典外典□<云々>。

―14日 乙卯 (いつぼう)。天変の御祈りとして、内典外典等に就いて始行すと云々。
―「内典(ないてん)」というのはお経、「外典(げてん)」と言うのは其の解説書。

○十六日 丁巳 終日降雨。 今日評定。御家人等不臨重病危急期者。所帯不可譲妻妾之由定<云々> 。其後修理職前武州参御所。沙汰有恩沢。基綱奉行之。

―16日 丁巳 終日雨降る。今日評定あり。御家人等重病危急の期に臨まざれば、所帯を妻妾に譲るべからざるの由定 めらると云々。その後修理職、前の武州御所に参らる。恩沢の沙汰有り。基綱これを奉行す。
―御家人等は重病で瀕死の病に臥すときに勝手に所帯を妻妾に譲ってはならない、ということなんですね。これは「鎌倉幕府の土地」を勝手に処分してはならない、ということです。鎌倉初期には土地の分割相続が出来たんです。次男も女子も相続できた。それが女を締め出し、鎌倉中期には庶子も締め出した。
―修理職は中央政府の中にある今の建設省。北条時房、連署です。前武州は北条泰時、執権でしょ。時の執権と連署が一緒に御所に―将軍の九条頼経のところに来たんです。これは重大なことですね。
―「恩沢」は所領・所職。一番大事なこと。

○十八日 己未。 毎月六齋殺生禁断事仰下。但為河海漁人渡世計者。非制止限之由<云々>。

―18日 己未 ()毎月六齋殺生禁断の事仰せ下さる。但し河海の漁人渡世の計を為すは、制止の限りに非ざるの由と云々。
―「毎月の六齋」というのは、仏教上特に身を謹んで持戒清浄であるべきことが求められる。
―8月14・15・29・30日が殺生禁断の日。但し、川や海に関わって渡世の計らいとしている人たちはよい。

○十九日庚申。於御所。節分御方違事。其沙汰有。可被用遠江守之名越之宿所由。前武州令申給処。清右衛門大夫季氏申云。彼所天一遊行方也。可有憚。被問陰陽頭維範朝臣。公家外不可有其憚之由申之。仍治定名越亭。

―19日 庚申(こうしん) 御所に於いて節分の御方違えの事その沙汰有り。遠江の守の名越の宿所を用いらるべ きの由、前の武州申せしめ給うの処、清右衛門大夫季氏申して云く、彼の所は天一遊行方なり。憚り有るべしと。陰陽の頭維範朝臣に問わる。公家の外その憚り有るべからざるの由これを申す。仍って名越亭に治定すと。
―京都でも、鎌倉でも庚申会(こうしんえ)というものをした。徹夜で話をしてね。江戸時代に盛んだったんですが、平安・鎌倉の時代にも行われた。
―御所で節分を迎えるのに方角が悪いので方違えとして静岡の遠江国(静岡三カ国、伊豆・駿河・遠江)の北条朝時の名越の城に行こうということです。
―「名越(なごえ)」というのは、もともとは北条時政は名越殿といわれたんです。それで重時が継いでこの時は朝時です。
―で、前武州がこれを申したところ異論が出た。
―清右衛門大夫季氏、「清」は清原氏ですね。清原李氏が「名越の館というのは天一神(てんいちじん)という神様がいるところで具合が悪い、というんですね。「天一神」というのは陰陽道で祀る方角の神様。地星の霊で吉凶禍福を司る。
―鎌倉ではこの障りはありません、というが将軍の実父の九条家は気にするんですね。
―九条家は公家(こうけ)ですから(この先は聞きとれませんでしたm(__)m・・・筆者注

○廿二日 □亥 。自去二十日。至今夜。於御所被行属星御祭。晴賢朝臣奉仕之。将軍家毎夜出御其庭。有御拝(御束帯)。今夜結願也。御祭物具 皆焼上<云々>。能登守仲能奉行之。

―22日 癸亥(きがい)。去んぬる二十日より今夜に至るまで、御所に於いて属星の御祭を行わる。晴賢朝臣これを奉仕す。将軍家毎夜その庭に出御す。御拝有り(御束帯)。今夜結願なり。御祭の物具 は皆焼き上げると云々。能登の守仲能これを奉行す。
―「属星の御祭り」〜属星祭(ぞくしょうさい)生まれた年を「本命星」、毎月変わっていく星を属星といいます。
筆者注―この間のセミナーでは、「本命」は生まれながらに持っている運命、「属星」はそれぞれの年によって星の廻りの違いによって変わる運命、とおっしゃってました・・・その方が分かりやすい
―20日から行っていたので、今日三日目に結願する。此れに使った書道具は、みんなきれいに焼き上げた、ということです。

○廿三日 甲子。霽。戌刻将軍家御方違之為。入御遠江守朝時名越亭。此日来御本所也。 今日注匠作家領惣員数。配分給子息等。大体内々前武州被申合。少々用捨事有<云々>。

―23日 甲子()。霽。戌の刻将軍家御方違えの為、遠江の守朝時の名越亭に入御す。これ日来御本所なり。 今日、匠作家領の惣員数を注し、これを子息等に配分し給う。大体は内々前の武州に 申し合わさる。少々は用捨の事有りと。
―将軍家は名越の館に来て、今日時房が家領(かりょう)の財産目録を作って、北条家の子息等に配分する。大体は内の北条泰時の許可を受けているから、少々は大目に見ている、ということ。
この時代は、既に北条氏もいくつかに分かれていて
大仏流の()、信州の塩田北条、金沢文庫の金沢北条、極楽寺北条などたくさんの北条氏がいたんです。そのなかでも、名越北条は有力だったのね。

○廿四日乙丑。晴。遠州亭御逗留。今日依帰亡日也。此憚無之由。陰陽道雖勘申之。法性寺殿令忌給間。追御佳例追<云々>。

―24日 乙丑()。晴。遠州亭御逗留。今日帰亡日たるに依ってなり。これその憚り無きの由陰陽道これを 勘じ申すと雖も、法性寺殿忌せしめ御う間、御佳例を追わると。
―(将軍家は)遠州の亭(名越北条の館)にずっと滞在している。本来は23日に帰るはずだったのが、23日が帰亡日(きもうにち)だったので・・・
―「帰亡日」というのは家に還ってはいけない日です。陰陽道でいう、家に帰る・入国・移転・嫁取りなどのタブーの日。
正月・四月・七月・十月は丑の日、二月・五月・八月・十一月は寅の日、三月・六月・九月・十二月は子の日・・・一年365日の内25日以上は帰亡日。今なら男の人たちが歓ぶでしょう。
―公家の他は憚りないない、ということであったけれど、法性寺殿ー九条道家、将軍頼経の実父で摂政―が帰亡日を嫌ったんです。

○廿五日 丙寅。自名越還御。遠州被進御引出物。御劔式部丞時章。御馬遠江修理亮時幸。同五郎時兼等引之。

―25日 丙寅()。名越より還御す。遠州御引出物を進せらる。御劔は式部の丞時章、御馬は遠江修理の亮時幸・同五郎時兼等これを引く。
―25日になって、やっと名越から帰ってくるんだね。朝時が引き出物を送る。御劔は北条時章、御馬は・・・全て名越北条の一族が面倒を見たんです。

○廿六日 丁卯。将軍家出御。御持仏堂東僧坊。匠作・前武州参。恩沢事等於御前有沙汰。入眼。其後出御同東縁。召陰陽師等。明年二所御奉幣之日時以下事直有下問。定<云々>。

―26日 丁卯()。将軍家御持仏堂の東僧坊に出御す。匠作・前の武州参らる。恩沢の事等御前に於いて沙汰有り。入眼。その後同東縁に出御す。陰陽師等を召し、明年の二所御奉幣の日時  以下の事直に下問有り。定めらると。
―「 入眼(じゅげん)」恩沢のことに対して、将軍が、御家人にご恩を与え、御家人が将軍に奉公する、という封建制のシステム。
官職だけ書いてあるリストがあり、そこに御家人の氏名を書き入れると効力を発揮する。
―其の後、将軍の新年の二所詣でについて座談があった。直に「下問」将軍家が直に問いたずねた、ということですね。

○廿八日 己巳。 匠作。前武州。遠江守。右馬権頭。駿河守。宮内少輔等。右大将家。二位家 。前右京兆等参法華堂。歳末故哉。駿河前司・毛利蔵人大夫入道 ・甲斐の守・秋田城介参会<云々>。

―28日 己巳()。匠作・前の武州・遠江の守・右馬権の頭・駿河の守・宮内少輔等、右大将家・二位家 ・前の右京兆等の法華堂に参らる。歳末たるが故か。駿河の前司・毛利蔵人大夫入道 ・甲斐の守・秋田城の介参会すと。
―遠江の守朝時が執権・連署に次いで名前が出てくる、ということは、この時、いかに名越北条が力を持っていたか、ということ。
次に右馬権頭、足利氏が続く。足利氏は代々北条氏の娘を妻にしている。この時は泰時女が嫁いでいた。
―「右大将家・二位家 ・前の右京兆等の法華堂に参らる」といのは、まあ法花堂にお参りした、ということなんですが、「法花堂」というのは、もともと其の人の持仏堂で、其の人が亡くなるとお墓になるんです。26日に将軍家が法花堂に行った、ということは将軍家(個人)の法花堂で、将軍家がなくなるとそこがお墓になる。だから、梶原景時の法花堂とか、いろいろあるんですね。

○廿九日 庚午。天霽。 戌刻周防前司親實家焼亡。失火<云々>。

―29日庚午()。天霽。 戌の刻周防の前司親實の家焼亡す。失火と云々
―周防の前司は中原のチカザネです。
嗚呼、終わりましたね!!
先生深い溜息の後すぐ、次の第一の話題に移って・・・「吾妻鏡」第一へ




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