吾妻鏡用ノート

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 2007年3月10日(土)「吾妻鏡」三 元暦元年4月21日〜5月大15日

筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に  が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。

<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です。

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真鶴探索のご案内がありました。3月27日の火曜日です。母のデイケアの日で都合が良い、と言えばよいのですが、そういう日には、普段できない大掛かりな掃除等があるのでねぇ・・・パスだなあ(^_^;無念

○廿一日 己丑。自去夜。殿中聊物[公の下に心]。是志水冠者雖爲武衛御聟。亡父已蒙 勅勘。被・戮之間。爲其子其意趣尤依難度。可被誅之由内々思食立。被仰含此趣於眤近壯士等。女房等伺聞此[古の下に又]。密々告申姫公御方。仍志水冠者廻計略。今暁遁去給。此間。假女房之姿。姫君御方女房圍之出[土郭]内畢。隠置馬於他所令乗之。爲不令人聞。以綿[果の下に衣]蹄<云々>。而海野小太郎幸氏者。与志水同年也。日夜在座右。片時無立去。仍今相替之。入彼帳臺。臥宿衣之下。出髻。日闌之後。出于志水之常居所。不改日來形勢。獨打雙六。志水好雙六之勝負。朝暮翫之。幸氏必爲其合手。然間。至于殿中男女。只成于今令坐給思之處。及晩縡露顯。武衛太忿怒給。則被召禁幸氏。又分遣堀藤次親家已下軍兵於方々道路。被仰可討止之由<云々>。姫公周章令銷魂給。

[公の下に心]→怱  [古の下に又]→事  

――廿一日 己丑。
――去んぬる夜自り、殿中聊かぶっそうなり。
――是は志水の冠者、武衛の御聟と爲ると雖も、亡父、已に 勅勘を蒙り、・戮せらるる之間、其の子、其の意趣、尤も度(はから)い難きに依って、誅さるるべき之由、内々、思し食し立つ。・・・木曾義仲の息子志水の志水の冠者義高と頼朝と政子の娘の大姫は婚約中でラブラブでした。義高は1173年生まれで、1184年の当時は11歳。(大姫はそれより五歳くらい下?と仰ったのか、一寸聞きそこないm(__)m)父の義仲が勅勘に触れて誅せられた。
――此の趣を眤近(じっこん)の壯士等に仰せ含らる。
――女房等は、此の事を伺い聞き、密々に姫公の御方に告げ申す。
――仍って、志水の冠者は、計略を廻らし、今暁、遁れ去り給ふ。
――此の間(かん)、女房之姿を假(か)り、姫君の御方の女房、之を圍(かこ)み、郭内を出だし畢(おわんぬ)。
・・・(圍→国文研版では。更に、国文研版では、[土郭]内畢。はなし)

――馬を他所に隠し置き、之に乗ら令む。・・・(隠置馬於他所令乗之。爲不令人聞。以綿[果の下に衣]蹄<云々>。→国文研版では、この部分なし)
――人をして聞かせ令めざらんが爲、綿を以って、蹄(ひづめ)を[果の下に衣](つつ)むと<云々>。・・・蹄の音を聞かれないように綿でくるんだ、というんですね。それで走れるのかな(^_^;(と、先生は笑ってらっしゃいました♪
――而して海野小太郎(うんののこたろう)幸氏(ゆきうじ)者(は)、志水与(と)同年也。・・・海野小太郎は信濃武士。海野の庄という所。義高側近で、彼も元服したばかり。遊び相手ですね。海野小太郎というのは頼家の臣下として仕え重用される。馬・弓の名手。
――日夜座右に在り、片時も立去る無し。
――仍って、今、之に相替り、彼の帳臺に入り、宿衣(しゅくえ)之下に臥し、髻(もとどり)を出だす。・・・(→国文研版では出髻〈云云〉

――日闌(にちらん)之後、志水之常の居所(きょしょ)に出で、日來(ひごろ)の形勢を改めず、獨り雙六を打つ。・・・(日闌之後→国文研版では「之」なし)
――志水は雙六之勝負を好み、朝暮之を翫(もてあそ)ぶ。・・・双六はさいころを使って遊ぶ物。偶数しか出ないインチキサイコロも鎌倉で発掘されている。御家人たちの娯楽のひとつ。あまりに流行しすぎて禁止令も出している。
――幸氏は、必ず其の合手爲り。
――然間(しかるあいだ)、殿中の男女に至り、只に今に坐せ令め給ふ思ひを成す之處、晩に及びて、縡(こと)は露顯す。(縡→国文研版では
――武衛、太(はなはだ)、忿怒し給ふ。
――則ち、幸氏を召し禁じらる。
――又、堀藤次親家已下の軍兵を方々の道路に分け遣わし、討ち止すべき之由、仰せらると<云々>。・・・(被仰可討止之由<云々>→国文研版では<云々>なし)・・・「方々の道路」鎌倉に行く道は全部鎌倉街道。入間川もその一つ。

――姫公は周章し魂を銷(け)さしめ給ふ。・・・(姫公周章令銷魂給→国文研版では姫公周章周章、銷魂給。)

(・・・先生は、このへん、大姫と義高の話をなさると期待していたんだけど、わりとあっさり終わっちゃいました(^_^;やはり、11歳と6歳では、ラブストーリーに無理がある、作り話っぽい、と思われるのでしょうか(^_^;まあ普通ならそうなんだろうけど・・・。
大姫の年齢は不詳で、つまり生まれた年が分からないらしい・・・治承2年(1178)か3年(1179)か、と言う所らしいです。そうすると、元暦元年(1184)のこの時は6歳or5歳なわけ!!でも、6歳位の女の子って、おちびとは侮れない色っぽい子もいるし、女の情念みたいなのを持っている子も多いと思うんですよ(^^)
それに、当時の男の子で11歳なら、人質に来た意味を十分知っているわけだし、そこへ自分を一生懸命慕ってくれる小さな女の子がいれば、恋愛感情抜きにして愛しいと思うと思うんだよね(^^)マンマ色恋でなくとも、命がけの愛情物語はあったと思います。・・・筆者の呟き

○廿二日 庚寅。民部大夫光行又豐前々司与平家之過[古の下に又]。可蒙免許之由。被遣御書於源九郎主<云々>。


[古の下に又]→事

――廿二日 庚寅。
――民部大夫(みんぶのだゆう)光行(みつゆき)、又、豐前々司(ぶぜんのぜんじ)平家に与(くみ)する之過事、免許を蒙るべき之由、御書(ごしょ)を源九郎主に遣さる<云々>。・・・・(平家之過[古の下に又]→国文研版では平家之惡事・・・東鑑目録の読み下し参照。・・・14日の記事を受けて民部大夫光季・光行のことを許したと義経に御書を出した。



○廿三日 辛卯。下河邊四郎政義者。臨戰場竭軍忠。於殿中積勞効。仍御氣色殊快然。就中三郎先生義廣謀叛之時。常陸國住人等。小栗十郎重成之外。或与彼「於」逆心。或逐電奥州。政義自最初依令候御前。以當國南郡。宛賜政義之處。此一兩年國役連續之間。於[古の下に又]不諧之由。屬筑後權守俊兼愁申之。仍可隨芳志之由。被遣慇懃御書於常陸目代。
   
   常陸國務之間[古の下に又]。三郎先生謀叛之時。當國住人。除小栗十郎重成之外。併被勸誘彼反逆。奉射御方。或迯入奥州。如此之間。以當國南郡。宛給下河邊四郎政義畢。此一兩年上洛。度々合戰。竭忠節畢。而南郡國役責勘之間。云地頭得分。云代官經廻。於事不合期之由。所歎申也。彼政義者。殊糸惜思食者也。有限所當官物。恒例課役之外。可令施芳意給候。於所當官物。無懈怠可令勤仕之旨。被仰含候畢。定令致其沙汰候歟。地頭職所當官物。無對捍儀者。雖何輩何共煩候哉。以此旨可令申觸之旨。鎌倉殿所仰候也。仍執達如件
        四月廿二日                俊兼<奉>
     謹上  常陸御目代殿



――廿三日 辛卯。
――下河邊の四郎政義者(は)、戰場に臨み、軍忠を竭(つく)す。・・・下河辺は千葉県、資料集参照
――殿中に於いては、勞効を積む。
――仍って、御氣色(みけしき)殊に快然たり。
――就中(なかんずく)、三郎先生義廣、謀叛之時、常陸の國の住人等、小栗の十郎重成之外、或いは彼の逆心に与(くみ)し、或いは奥州に逐電す。・・・(或与彼「於」逆心→国文研版では或與彼逆心)・・・志田先生義廣は義朝の弟。常陸の国での謀反の時、小栗氏以外は皆、義廣の味方であった。
・・・小栗は真壁郡協和町、今は筑西市小栗になっています。小栗判官の祖。
・・・「奥州に逐電す」というのは、まだ、(この当時)幕府の権力は東北に及ばない。
――政義は最初自り御前に候ぜしめるに依って、當國の南郡を以って、政義に宛賜(あてたま)ふる之處、此の一兩年、國役(こくやく)連續之間、事に於いて諧(かなわ)ざる之由、筑後の權の守俊兼に屬して之を愁い申す。
・・・「國役連續之間」とは、せっかく頼朝から派遣されていても、実際の実入りがない。「國役」というのは公事奉行人。
・・・「當國の南郡」というのは、この場合は茨城の南郡、行方・川内・筑波のあたり。
――仍って、芳志に隨ふべき之由、慇懃の御書(ごしょ)を常陸の目代に遣わさる。・・・「目代」というのは国から派遣されている国司の代官。
   
――常陸の國務之間の事。三郎先生謀叛之時、當國の住人は、小栗の十郎重成を除く之外、併せて彼の反逆に勸誘せられ、御方を射奉る。或いは、奥州に迯(のが)れ入る。
――此くの如き之間、當國南郡を以って、下河邊の四郎政義に宛て給ひ畢。
――此の一兩年、上洛、度々合戰し、忠節を竭(つく)し畢。
――而るに南郡の國役、責勘(せきかん)之間、地頭の得分(とくぶん)と云ひ、代官經廻と云ひ、事に於いて合期(ごうき)せざる之由、歎き申す所也。
――彼の政義者(は)、殊に糸惜(いとお)しく思し食す者也。
――有限の所當(しょとう)の官物(かんもつ)、恒例の課役之外、芳意施せしめ給ふべく候。
――所當の官物に於いては、、懈怠(けたい)無く、勤仕せしむべき之旨、仰せ含められ候ひ畢。(於當官物→国文研版では、於當官物)
――定めて其の沙汰を致せしめ候ふ歟(や)。
――地頭職(じとうしき)所當の官物(かんもつ)、對捍(たいかん)の儀無く者(ば)、何れの輩と雖も、何共煩ひ候ふ哉(や)。・・・(雖何輩何煩候哉→国文研版では雖何輩、何煩候哉)
――此の旨を以って、申し觸らしむべき之旨、鎌倉殿、仰せ候ふ所也。仍って執達、件の如し・・・(此旨可令申觸之旨→国文研版では、申觸なし
――四月廿二日                
――俊兼奉る・・・頼朝の花押はない。
――謹上(きんじょう)・・・(国文研版にはない)・・・謹んで上す、ということ。 
――常陸の御目代殿・・・つまり、中央に納める規定のもの以外は下河辺に与えて欲しい、という意味で、(書き方としては)下出に出ている。国の正式な役人に対する配慮がある。

○廿四日 壬辰。賀茂社領四十一箇所。任 院廳御下文。可止武家狼藉之由。有其沙汰。

――廿四日 壬辰。
――賀茂社領四十一箇所、院の廳御下文に任せて、武家の狼藉を止むべき之由、其の沙汰有り。・・・賀茂神社の社領に武家の狼藉をさせない、という、後白河法皇との鬩ぎ合いです。


○廿六日 甲午。堀藤次親家郎從藤内光澄歸參。於入間河原。誅志水冠者之由申之。此[古の下に又]雖爲密儀。姫公已令漏聞之給。愁歎之餘令斷漿水給。可謂理運。御臺所又依察彼御心中。御哀傷殊太。然間殿中男女多以含歎色<云々>。

[古の下に又]→事
――廿六日 甲午。
――堀の藤次親家郎從、藤内光澄(とうないみつずみ)歸參す。
――入間河原に於いて、志水の冠者を誅する之由、之を申す。・・・入間河原で義高を斬った。入間川は江戸時代にも、江戸に材木を運ぶために栄えた。飯能市などもその中継地として栄えた。河越は入間川の分岐点として近世に栄える。武蔵の中心地は府中です。
――此の事、密儀を爲すと雖も、姫公は已に之を漏れ聞きしめ給ふ。
――愁歎之餘り漿水(しょうすい)を斷ちしめ給ふ。・・・大姫はこれを知って、重湯も喉に通らない。
――理運(りうん)と謂ふべし。
――御臺所は又、彼の御心中を察するに依って、御哀傷、殊に太し。・・・御臺所は母としてショック!
――然る間、殿中の男女、多く以って歎色を含むと<云々>。・・・幕府の宮中は憂愁に包まれている。

・・・まあね、何時の時代でも、父親は子供たちの心に無関心な事が多い!無関心とは言わなくとも、子供心がわからない、と言うことが多い!事が起こってから、自分がどれほど、子供心を踏みにじるようなことをしたか思い知るわけです。もっとも、その時でさえ、何が起こったか理解できない父親は多いでしょう。まず、この時の頼朝は、そうですよね(^_^;)


○廿八日 丙申。平氏在西海之由風聞。仍被遣軍兵。爲征罸無事御祈祷。以淡路國廣田庄。被寄附廣田社。其御下文。付前齋院次官親能上洛便宜。可被遣神祇伯仲資王<云々>。
 
 寄進    廣田社神領[古の下に又]
    在淡路國廣田領壹所
 右爲増神威。殊存祈祷寄進如件。
        壽永三年四月廿八日           正四位下源朝臣

[古の下に又]→事

――廿八日 丙申。
――平氏、西海に在る之由、風聞す。・・・(西海→国文研版では西國
――仍って軍兵を遣され、征罸無事御祈祷の爲、淡路の國、廣田の庄を以って、廣田社に寄附せらる。・・・「廣田庄」は兵庫県津名郡(現・南淡路市)、初めて「吾妻鏡」に出てきた。
――其の御下文、前の齋院の次官(すけ)親能、上洛の便宜に付き、神祇伯(じんぎのかみ)仲資王(なかすけおう)に遣わさるべしと<云々>。・・・(仲資→国文研版では、仲資)・・・「神祇伯」は神祇官の長官。神祇官は太政官と並んで、その下に四等官制度(介<すけ>・祐<じょう>・司<さかん>)があります。
――寄進す    
――廣田社神領の事
――在、淡路の國、廣田の領、壹所
――右、神威を増さんが爲、殊に祈祷を存じ寄進、件の如し。
――壽永三年四月廿八日           
――正四位下源朝臣


○廿九日 丁酉。前齋院次官親能爲使節上洛。平家追討間[古の下に又]。向西海可奉行之<云々>。土肥次郎實平梶原平三景時等同首途。調置兵船。來六月屬海上和氣期。可遂合戰之由被仰含<云々>。

[古の下に又]→事

――廿九日 丁酉。
――前の齋院の次官(すけ)親能、使節爲(と)して上洛す。
――平家追討の間の事、西海に向(おもむ)き、之を奉行すべしと<云々>。
――土肥の次郎實平・梶原の平三景時等、同じく首途(かどで)す。・・・最初、親能を使節として上洛させ、次に實平・景時を遠征させる。
――兵船を調へ置き、來る六月、海上の和氣(わき)の期に屬し、合戰を遂ぐべき之由、仰せ含めらると<云々>。

○五月大
○一日 戊子。故志水冠者義高伴類等令隱居甲斐信濃等國。擬起叛逆之由風聞之間。遣軍兵。可被加征罸之由。有其沙汰。足利冠者義兼。小笠原次郎長清。相伴御家人等。可發向甲斐國。又小山宇都宮比企河越豐嶋足立吾妻小林之輩令下向信濃國。可捜求彼凶徒之由被定<云々>。此外相摸伊豆駿河安房上総御家人等同相催之。今月十日可進發之旨。被仰義盛。能員等<云々>。



――五月大
――一日 戊子。
――故志水の冠者義高の伴類等、甲斐・信濃等の國に隱居(おんきょ)せしめ、叛逆を起こさんと擬する之由、風聞する之間、軍兵を遣わし、征罸を加えらるべき之由、其の沙汰有り。・・・義高の遺臣たちが、鎌倉幕府を転覆させようとしている、という風聞があった。信濃に残党征伐の兵を出した。
――足利の冠者義兼・小笠原の次郎長清、御家人等を相伴い、甲斐の國に發向すべし。・・・足利義兼は、妻が政子の妹です。小笠原長清は甲斐源氏。
――又、小山・宇都宮・比企・河越・豐嶋(てしま)・足立・吾妻・小林之輩(やから)は信濃の國に下向せしめ、彼の凶徒を捜し求むべき之由、定めらると<云々>。・・・(可捜求彼凶徒之由→国文研版では可捜求之由)・・・その外、小山。宇都宮は二荒(ふたあら)、今の日光。比企は武蔵の比企郡。河越は荒川上流。豐嶋(てしま)は今の23区の豊島区。足立は安達の縁戚。吾妻は群馬県西北部吾妻郡。小林は大田区矢口、河越重頼の弟重義。
――此の外、相摸・伊豆・駿河・安房・上総の御家人等、同じく之を相催し、今月十日、進發すべき之旨、義盛・能員等に仰せらるると<云々>。

この辺は、いつもなら、もう少し武士団のことを詳しく説明があると思うのですが・・・なかったなぁ?!小山や宇都宮はいつもでて来るから良いのですが、「小笠原の次郎長清」ってお初じゃない?と思って、例の「横浜吾妻鏡の会」の人名簿ひっくり返したら、無い!息子の名前で小笠原長経というのがあって、「加々美」の氏が出ていたので、ははぁん、と「加々美長清」で引いたらありました(^^)でー、筆者の補足として、ちょっと纏めて小笠原の次郎長清のこと。加々美遠光の次男で甲斐源氏。妻はヌァ〜ント藤原邦綱女ですが、なんたって、小笠原流弓馬の祖です!!甲斐源氏が軒並み粛清される中にあって、何故か加々美一族は頼朝に信頼され、遠光は和田義盛の娘を妻にして、長清を儲けた!長清が「小笠原流弓馬の祖」ということで分かるでしょうけど、鎌倉〜室町〜江戸時代を大名家として生き延びて現在まで至るんですから・・・大変な世渡り上手♪大体、藤原邦綱の娘を妻にしているってのが、よくわからない(^_^;何しろ、相手は五条大納言として、平家とも親しかったし、後白河法皇の下でけっこう羽振りがよかったはずだし、ねえ(^_^;)

○二日 己丑。依志水冠者誅戮[古の下に又]。諸國御家人馳參。[ノの下に几]成群<云々>。

[古の下に又]→事  [ノの下に几]→凡
――二日 己丑。
――志水の冠者、誅戮の事に依って、諸國の御家人馳せ參ず。凡そ群を成すと<云々>。
もう〜、時代は鎌倉♪ってとこなんでしょうえね・・・筆者の呟き)

○三日庚寅。武衛被奉寄附兩村於二所大神宮。去永暦元年二月御出京之刻感靈夢之後。當宮事御信仰異他社。然者平家黨類等在伊勢國之由。依令風聞。遣軍士之時者。縱雖爲凶賊之在所。不相觸[古の下に又]之由於祠官。無左右、不可亂入神明御鎮坐砌之旨。度々所被仰含也。謂件兩所者。内宮御分武藏國飯倉御厨。被仰付當宮一祢宜荒木田成長神主。外宮御分安房國東條御厨。被付會賀次郎大夫生倫訖。爲一品房奉行。遣兩通御寄進状。彼東條御厨[古の下に又]先日雖被付御寄進状。去年十一月祢宜等捧請文<云々>。状跡不相應<云々>。不甘心歟。此上可爲何様哉由。御猶豫之處。御心中祈願納得。偏尊神御冥助之旨。弥以催御信心。而折節生倫參候之間。載御願旨趣。賜御書<此寄進状外也>。於生倫。々々正衣冠。參御所給之。御寄進状云。
  寄進 伊勢皇太神宮御厨壹處
    在武藏國飯倉
  右志者。奉爲 朝家安穩。爲成就私願。殊抽忠丹。寄進状如件。
      壽永三年五月三日           正四位下前右兵衛佐源朝臣
  寄進 伊勢太神宮御厨一處
    在安房國東條
      四至如舊
  右志者。奉爲 朝家安穩。爲成就私願。殊抽忠丹。寄進状如件。
      壽永三年五月三日           正四位下前右兵衛佐源朝臣

[古の下に又]→事


――三日庚寅。
――武衛は、兩村を二所大神宮に寄附奉らる。
――去んぬる永暦元年()二月、御出京之刻(みぎり)、靈夢(れいむ)を感ずる之後、當宮(とうぐう)の事、御信仰、他社に異る。
――然者(しかれば)、平家の黨類等、伊勢の國に有る之由、風聞せしむるに依って、軍士を遣わす之時者(は)、縱え凶賊之在所爲ると雖も、事之由を祠官に相觸れず、左右無く、神明御鎮坐の砌(みぎり)には、亂入すへからず之旨、度々、仰せ含めらるる所也。
――件の兩所に謂ふ者(は)、内宮(ないぐう)の御分(ごぶん)、武藏の國、飯倉の御厨(みくりや)、當宮の一の祢宜、荒木田の成長神主に仰せ付けらる。
――外宮(げぐう)の御分(ごぶん)、安房の國、東條の御厨。會賀の次郎大夫(だいぶ)生倫(いくとも)に付けられ訖(おわんぬ)。
――一品房、奉行を爲す。
――兩通の御寄進状を遣わす。
――彼の東條の御厨の事は、先日、御寄進状を付けらるると雖も、去んぬる年十一月、祢宜等、請文を捧げると<云々>。
――状跡、相應ならずと<云々>。
――甘心(かんしん)たらざる歟(か)。
――此上は、何様(なにさま)爲るべけん哉との由、御猶豫之處、御心中、祈願納得さるは、偏へに尊神(そんしん)の御冥助(ごめいじょ)之旨、弥(いよいよ)以って、御信心を催す。・・・(神御冥助之旨→国文研版では偏神御冥助之旨)
――而るに折節、生倫參候之間、御願の旨趣を戴き、御書<此寄進状の外也>を生倫に賜る。生倫は、衣冠を正し、御所に参り之を給ふ。
――御寄進状に云く。
――寄進 伊勢皇太神宮御厨壹處
――武藏の國、飯倉に在り
――右の志者(は)、朝家安穩の奉爲()、私願の成就の爲、殊に忠丹を抽し、寄進状、件の如し。
――壽永三年五月三日           正四位下前右兵衛佐源朝臣
――寄進 伊勢太神宮御厨一處
――安房の國東條に在り
――四至(しいじ)は舊(もと)の如し
――右の志者(は)朝家安穩の奉爲()、私願の成就の爲、殊に忠丹を抽し、寄進状、件の如し。
――壽永三年五月三日           正四位下前右兵衛佐源朝臣


○十二日 己亥。雷雨。雜色時澤爲使節上洛。是園城寺長吏僧正房覺痢病危急之由。依有其聞。被訪申之故也。武衛日來御祈祷等[古の下に又]被仰付<云々>。

[古の下に又]→事
――十二日 己亥。雷雨。
――雜色(ぞうしき)、時澤、使節爲して上洛す。
――是は園城寺の長吏(ちょうり)僧正房覺(ぼうかく)痢病(りびょう)危急之由、其の聞こえ有るに依って、訪申せらる之故也。・・・長吏(ちょうり)というのは、一つの寺院の長。勧修寺・園城寺などは特別な呼称をする。天台宗なら天台座主、とか言う。
――武衛、日來(ひごろ)、御祈祷等の事を仰せ付けらるると<云々>。

「雑色」というのは、幕府の御家人じゃない、頼朝個人の私設秘書のようなものだと、以前先生からの説明がありましたが、やはり序列はあるようで、名前だけ残っている「雑色・鶴次郎」なんていう人は、本当に手足として、時にはスパイとして使われるような者だったと思うんだけど、こういう苗字で残っている「雑色」は、頼朝の使者として、園城寺の僧正のお見舞いに行くんですね。まあ頼朝の私設の第一秘書なんでしょう。公設第一秘書は例の藤原邦通なんだと思いますけど、ねぇ♪・・・筆者の呟き)

○十五日 壬寅。申尅。伊勢國馳驛參着。申云。去四日。波多野三郎。大井兵衛次郎實春。山内瀧口三郎。并大内右衛門尉惟義家人等。於當國羽取山。与志太三郎先生義廣合戰。殆及終日爭雌雄。然而遂獲義廣之首<云々>。此義廣者。年來含叛逆之志。去々年率軍勢。擬參鎌倉之刻。小山四郎朝政依相禦之。不成而逐電。令属義仲訖。義仲滅亡之後又逃亡。曾不弁其存亡之間。武衛御憤未休之處。有此告。殊所令喜給也。


――十五日 壬寅。申(さる)の尅。・・・申尅は16時頃。
――伊勢の國の馳驛(ちえき)參着す。・・・馳驛は緊急の場合、中央から派遣される臨時の使い。「驛」というのは三十里(今の四里)ごとに置かれている。
――申して云く、去んぬる四日、波多野の三郎・大井の兵衛の次郎實春・山内の瀧口三郎・并ぴに大内の右衛門の尉惟義の家人等、當國の羽取山(はとりやま)に於いて、志太の三郎先生義廣与(と)合戰し、殆んど、終日に及び、雌雄を爭ふ。
――然而(しかれども)、遂に義廣之首を獲ると<云々>。
――此の義廣者(は)、年來(としごろ)、叛逆之志含み、去々年、軍勢を率い、鎌倉に参らんと擬する之刻(みぎり)、小山の四郎朝政之を相禦(あいふせ)ぐに依って、成らずして逐電し、義仲に属せしめ訖。・・・小山と志田は当地で領土拡大の争いをしていた。
――義仲滅亡之後は又、逃亡す。曾て其の存亡を弁ぜざる之間、武衛の御憤(おんいきどおり)は未だ休まざる之處、此の告げ有り。
――殊に喜ばしめ給ふ所也。

志太義廣は一応叔父さんなんですが・・・まあ、兄弟と言えど骨肉相食む時代ですけど、ねぇ・・・(^_^;そうそう、先日、鑑定団を見ていたら、石山寺のお宝紹介があって、その石山寺に、頼朝が、何だっけ?えっ?ビックリした!今、検索してきたら、あの国宝の多宝塔だって!!・・・まあ、その多宝塔を寄進したんですって(^_^;それは、悪源太義平が石山寺に逃げ込んだ時、匿ってもらったから、その御礼だというのですよ。へぇ〜!とビックリ!!悪源太義平は、頼朝にとっては庶腹の兄ですが、まあ、義朝の敗走に伴って、非業の死をとげてしまうのです。その庶腹兄のために、ねぇ・・・後には、自分の手で二人の弟を殺しちゃうのに、さ!!人の心はわかりません・・・筆者の呟き)



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