養和元年・1181年
治承5年7月14日を以て改元
7月大
20日 | 甲午 | 鶴岳若宮の寳殿上棟す。社頭の東方に假屋を搆へ、武衛著御す。御家人等、其の南北に候ず。 | ||
21日 | 乙未 | 和田の太郎義盛・梶原の平三景時等、仰せを奉り、昨日召し取らるる之左中太を相具し、固瀬河に向ふ。 |
8月小
13日 | 丁巳 | 藤原秀衡、武衛を追討せしむべき也。平の資永、木曽の次郎義仲を追討すべき之由 宣下す。 | ||
15日 | 己未 | 鶴岳若宮遷宮。武衛參り給ふと<云々>。 | ||
16日 | 庚申 | 中宮の亮通盛朝臣、木曽の冠者追討の爲、又、北陸道に赴く。 | ||
26日 | 庚午 | 散位、康信入道、進むる所の飛脚、申して云く。 今月一日、福原自り歸洛す。而るに去んぬる十六日、官軍等、東方を差して發向す。 |
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27日 | 庚午 | 澁谷の庄司重國の次男、高重、無貳の忠節を竭する之上、心操之隱便を感ぜしめ給ふに依って、 彼の當知行澁谷下の郷、所濟の貢等、免除せらる所也。 |
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29日 | 癸酉 | 御願成就の爲、若宮、并びに近國の寺社に於いて、大般若・仁王經等の轉讀せしむべき之旨、仰せ下さる |
9月大
3日 | 丙子 | 越後守資永<城四郎と号す。>勅命をじて、當國軍士等を驅け催す。 木曾の冠者義仲を攻め擬す之處、今朝頓滅す |
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4日 | 丁丑 | 木曾の冠者、平家追討に上洛の爲、北陸道を廻る。 | ||
7日 | 庚辰 | 從五位下藤原俊綱<字は足利の太郎。>者、武藏の守秀郷の朝臣の後胤、鎮守府將軍 兼阿波の守兼光の六代の孫、散位家綱が男也。 |
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13日 | 丙戌 | 和田の次郎義茂の飛脚、下野の國自り參り申して云く。義茂、未だ到らずの以前、俊綱專一とする者、 桐生の六郎、隱れ忠を顯わさんが爲、主人を斬し、深山に籠ず |
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16日 | 己丑 | 桐生の六郎、俊綱之首を持參す。先ず武藏大路自り、使者を梶原平三之許に立て、案内を申す。 | ||
18日 | 辛卯 | 桐生の六郎、梶原平三を以って申して云く。此の賞に依って、御家人に列すべしと<云々>。 | ||
27日 | 庚子 | 民部<田口>大夫成良、平家の使い爲(と)して、伊豫の國に乱入す。 | ||
28日 | 辛丑 | 和田の次郎義茂、下野の國自り歸參すと<云々>。 |
10月小
3日 | 丙午 | 頭中將維盛朝臣、東國を襲わんが爲、城外に赴くと<云々> | ||
6日 | 己酉 | 走湯山住侶禪■を以って、鶴岳の供僧、并びに大般若經衆に補す。 | ||
12日 | 乙卯 | 常陸の國、橘郷を以って、鹿嶋社に寄せ奉らしむ。 是は、武家の護持之神爲るに依って、殊に御信仰有りと |
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20日 | 癸亥 | 昨日、太神宮、權の禰宜、度會光倫<相鹿の二郎大夫と号す。>本宮自り參著す。 |
11月大
5日 | 丁丑 | 足利の冠者義兼・源の九郎義經・土肥の二郎實平・土屋の三郎宗遠・和田の小太郎義盛等・ 維盛朝臣を防禦爲(せ)んと、遠江の國に行き向わんと欲する |
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11日 | 癸未 | 加賀の竪者參著す。是は故入道源三位卿の一族也。而るに彼の三品禪門の近親、埴生の弥太郎盛兼、 去んぬる年の宇治合戰以後、或所に蟄居す。 |
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21日 | 癸巳 | 中宮の亮通盛の朝臣・左馬の頭行盛、北國自り歸洛す。但馬の守經正の朝臣、若狹の國に逗留すと | ||
29日 | 辛丑 | 早河の庄、所領乃貢者(みつぎは)、一向免除せらるる所也。殊に御憐愍に依って也 |
12月小
7日 | 己酉 | 御臺所御悩。仍って營中、上下群集す。 | ||
11日 | 癸丑 | 帥の公、日恵入滅す。日來(ひごろ)、腹中を煩ふ。今夜、則ち山内の邊りに葬る。 |
新年は養和2年(1182)、但し5月に改元あり寿永元年となります。