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2000年
1月3日(月)「六条御息所ー2」源氏との出会い@

源氏物語の中では、それぞれの女君たちとの出会いの場面について、格別の趣向を凝らしており、それがひとつの特徴となっている
また、それにもかかわらず、見上げる人としての藤壺と六条御息所については出会いの場面がない、というのが、もうひとつの特徴でもある。
というのが源氏物語読みの常識でもあるわけです。
母代たる藤壺は現に父帝の寵妃として宮中にあり、幼い頃の源氏は同じ御簾内にも入れたのですけれど、元服後はそれも出来なくなって焦がれるわけです。
つまり、青年源氏となっての後に出会ってどうの、という記述はありません。

円地文子氏の「源氏物語私見」においては、そのことを、
「『源氏物語』の特徴のひとつとしては、主な巻巻のヒロインとなる女性たちの、最初に源氏の目にふれる描写が、際立って冴えていることが数えられる。」とあり、それぞれの描写の鮮やかさを述べた後、更に、
「しかし、こうした生彩ある女性の出現絵巻をよそにして、『源氏』の作者は、最高貴族の女性に対しては、用心深く最初の光源氏との恋愛の場面の印象を読者に与えることを避けているように見える。」と続けています。

ただ、藤壺に関して言えば、同じ「源氏物語私見」の中で、
「彼の最初の冒険が、物語の上では低い階級の人妻空蝉を犯すところからはじまっているのも象徴的であるが、実はその前後に、彼は先帝の内親王であり、父帝の第一の寵妃である藤壺の宮を犯しているはずである。」という記述があります。これは、円地氏が源氏を「一種の理想主義者であり現実破壊者」として述べている部分なのですが、
私としては、これを「空蝉の巻」を読めば、藤壺との下りを彷彿させるものが感じられる何かがあるのではないか、という風に考えているのです。
勿論、空蝉とは身分も違って、藤壺の周りには十重二十重の垣が巡らされては居りますが、空蝉における小君のように王命婦がうまく使われて、源氏が思いを遂げ、
「源氏の場合は、これらの強ちな行為が、強姦にならず複雑な恋愛に発展して行くのは、彼自身の内のそれだけの魅力と威力によるものではあるがー後略」と円地氏がいうような展開をみせることになるのだと思います。

ところで、六条御息所に関してはといえば、これに対応するものとしては、明石御方を初めて見た時、「仄かなるけはひ、伊勢の御息所にいとよう覚えたり」と言う下りがあります。
円地氏の「私見」でも、二人の相似上の比較に、この一節を取り上げてはいますが、それは、「源氏が御息所に対する嫌悪感を殆ど忘れている」という立証のために使われています。
勿論、そういう側面もある、とは思います。

しかしながら、それに続けて、明石の巻で、
「何心もなくうちとけてゐたりけるを、かう物覚えぬに、いと理なくて、近かりける曹司の内に入りて、いかで固めけるにかいと強きを、しひてもおし立ち給はぬ様なり。されどさのみもいかでかはあらむ。人ざまいとあてにそびえて、心恥ずかしきけはひぞしたる。」とまで続けているのは、この下りこそが、年上である事や、亡き皇太子の未亡人であること、など高貴な身を謹んで、初手は頑なに拒みとおした六条御息所を大手からめ手で虜にした源氏を彷彿とさせる情景ではないでしょうか。

この前の文では、部屋の前にたたずんで何かと言葉をかけても「かうまでは見え奉らじ」とお返事もしない明石御方に対して、源氏か゛
「『ことなうも人めきたるかな。さしもあるまじき際の人だに、かばかり言ひよりぬれば、心強うしもあらずならひたりしを、いとかくやつれたるにあなづらはしきにや』と妬うさまざまに思し悩めり。」と落剥の身のコンプレックスを、密かに抱くのですが、その裏返しとしても強引に迫って行くわけです。

六条御息所に対しても、源氏とて様々なコンプレックスを抱いていたはずです。
いくら、当代の貴公子とはいえ、十八・九の若僧と、当代切っての艶やにして高雅、財力もある最高貴族女性。宮廷中の貴族が垂涎の洗練されたサロンを形成し、それを切りまわしていける経営能力もある。
片や、源氏は、まだまだ、父帝の庇護の下、私有の財産といっても、二条院とそこそこの荘園くらいだったはずですからね。
それを、そのコンプレックスをぶつけるように六条御息所に挑んで手に入れた後、あまりに自分の手にした獲物の大きさに押しつぶされそうになったのが、彼と彼女の破綻の元だったのではないでしょうか。

勿論、野々宮の別れの下りでの、源氏の描き口説き方に、ああ、始めの頃は、こうして熱心に書き口説いて御息所を手に入れたのだろうな、という感慨は抱かされるのです。
ことに、
「北の対の、さるべき所に立ち隠れ給ひて、ご消息聞え給ふに、遊びはみなやめて、心にくきけはひあまた聞ゆ。
なにくれの、人づてのご消息ばかりにては、みづからは対面し給ふべきさまにもあらねば、『いとものし』とおぼして、『かうやうのありきも、今はつきなきほどになりにて侍るを思ほし知らば、かう、しめのほかにはもてなし給はで、いぶせう侍る事をも、あきらめ侍りにしがな』と、まめやかに聞え給へば」という源氏のくどき文句に、まず、周囲の女官たちが篭絡されて
「いともの憂けれど、なさけなうもてなさむにもたけからねば、とかくうち嘆き、やすらひて、ゐざり出で給へる御けはひ、いと心にくし。」となるのが、なんとも、昔を今に、という偲ばせ方だと思うのです。

「私見」の中では
「源氏は七つ年上て゜あるから御息所に興ざめたのでもなく、彼女の世に聞こえた才華や美貌・・・周囲を統率して行くサロンの女主人としての大きさ、それらのすべてに感動もし、近勝りも覚えながらそうした理知に統一された貴婦人の底深く沈んでいる鋭い触覚を持つた情熱に、本能的な畏怖と崇拝とを同時に感じたに違いない。」とのべられています。

そういう意味では、明石御方は源氏を押しつぶすほどの大物でなかったことが互いの幸せ、とも言えたのでしょう。

「私見」では、更に「初音」の巻で、明石御方が「物語」風の文章をつづっていることをあげて、
「この文章を書く才能に長じているところにも御息所と明石の上に共通する叙情、叙事の文学性が見られる。」としています。

本居宣長の「手枕」の下りまで行こうと思っていたのですが、ここまででも、大変な長さになってしまいました。
その件に関しては次回、ということで・・・



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