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2月3日(木)「六条御息所-3」 源氏との出会いA− 本居宣長の「手枕」

早いもので、もはや如月ですねぇ。1月は風邪を引いたり、正月あとの後片付けもあったりと、とうとう一度しか書けませんでした。

で、六条御息所!
円地文子氏の「源氏物語私見」の「六条御息所考」という章の冒頭に「本居宣長の若い頃の文章に『手枕』というのがある。」という書き出しで、「六条御息所のもとへ光源氏が通いはじめ、ようやく馴れ初めるまでの経緯を格別の趣向を加えずに描いている。」――という一文が載っています。

本居宣長といえば、あの忠君愛国貞女孝行など朱子学がもてはやされた江戸時代に、「源氏物語ごとき姦淫の書云々」と迫害された折、「もののあはれ」論を力説して注釈書として「源氏物語玉の小櫛」を著した国学者でありますが、このおじさんが、学問上どうこういうより、やっぱり、かなりな源氏ファンという様子で、ご存知のとおり、藤壺やら六条御息所やら、高貴な女性達との馴れ初めの場面がなかったことか、よっぽど残念だったと見えて、これを「我こそはものしてくれむ」とて描き侍っちゃったわけです。

これは、円地氏が読んだ「友朋堂文庫の雅文小説集という徳川時代の擬古文の小説ばかり集めてある終わりの方に組み入れられていた分」だそうで、後書きに宣長の門人大館高門が、
「この文は、源氏の物語に六条の御息所の御事のはじめのみえざなるを、わが鈴屋大人の、かの物語のふりを学びて、はやくものし給へりしを、おのれ、こたみ(今度)倩ひ求め出でて、同じこころの友どちのために、板に彫りつるなり。」と書かれています。

「前坊(前の東宮)と聞えしは上(帝)の御同朋におはしまししを、御世のはじめより坊に居給ひて、大方の御覚えはさるものにて、内内の御有様はたいとあはれにやんごとなくおもほし交し給ひ、世の人もいと賢き儲けの君とたのみ所に仰ぎきこえさせつつ、行末めでたく飽かぬことなき御身を、いかなる御心にか物し給ひけん、世を味気なきものに思ほしとりて常はいかでかう苦しく処せき(窮屈な)身ならで、生ける世の限り、心安くのどやかに思ふこと残さず心のゆく業して明かし暮らす業もがなとのみ思し渡りけるほどに、遂に御本意のごと東宮をも辞し聞こえさせ給ひて、六条京極わたりになん住み給ひける。…中略…坊におはしましし時、その頃の大臣のむかひ腹(嫡妻の子)に、いと二無くかしづきたて給ひし御娘、本意ありて参り給ひける。御心ざし浅からず、あはれなる御中らひにて、…中略…清らに美しげなる女宮をなん生み奉り給ひける。」
「という調子であるから、この一節を試験にでも出されれば、うっかり源氏の中にこんな文章があったと思うかもしれない。」と円地氏は解説しています。

引用としても長い、長すぎる感があるこれを円地氏はそのまま載せておられ、私もまた、円地氏の顰にならって、全文を載せたのは、ここから始まる円地氏の「六条御息所考」に多いにうなづかされるからです。
もう、恥も外聞も無く言ってしまえば、私の六条御息所感というのは正しくこれに尽きる、というほどなのです。

円地氏の推論を続けます。
「特に、御息所や光源氏について、目に立つ解釈があるわけでもなく、未亡人となった御息所を慕って源氏が通って行き、女はなかなか許さないが、とうとう折れて「手枕」の契りを結ぶことになるという、他のいくつかの恋愛での常套の場面を繰り広げているに過ぎないのだが、私が問題にしたいのは、この短い擬古文で、若い宣長が何故殊更光源氏と『六条の御息所の御ことのはじめ』のないのを残念に思ったかという一点なのである。」
ここで、「『源氏物語』の特徴の一つとしては、主な巻巻のヒロインとなる女性達の、最初に源氏の目にふれる場面の描写が、際立つて冴えていることが数えられる。」として、「若紫」の紫上の衝撃的なデビューの仕方や、朧月夜の艶麗な登場、など様々な女君の初登場の場面を数えながら、
「しかし、こうした生彩ある女性の出現絵巻をよそにして、『源氏』の作者は、最高貴族の女性に対しては、用心深く最初の光源氏との恋愛の場面の印象を避けているように見える。」とも述べています。

そして、更に、藤壺、朝顔宮との関わり方とも比較して、
「仮に、源氏と関係の深い高貴な身分の女性を、藤壺の宮、六条の御息所、朝顔の斎院の三人に限ってみたとしても、宣長は何故、戯文にもせよ書き加えて見ようとするのに、藤壺や、朝顔、殊に藤壷との最初の密会を選ばずに、御息所との馴れ初めを選んだのだろうか。」という疑問を呈しています。

私などがアサハカに考えても、作者として書き易いのは、本文中にも存在感の薄い朝顔でしょうし、この人なら、いくらでもふくらませて別角度の源氏物語も書けそうです。また、源氏ファンとしてなら、源氏の永遠のマドンナたる藤壺との密会場面は後に続く因果応報の根源としての重さに挑戦するような意義で書きたいと思うのではないか、という気もします。

しかし、円地氏は、「藤壺の場合には単なる『源氏』の文章を模して擬古文を作るだけでは飽き足りない夥しすぎる内容が必要であったかもしれない」「或いはこの短編の筆をとった時、宣長は御息所と源氏について、それほど重く考えていなかったかもしれない。」と、表面的には逡巡しつつも、
「しかし、これらの源氏物語論を通して、宣長がどれほど彼以前の研究者よりも、『源氏』を深く愛し理解しているかが伺えるにつけても、私には、仮初に書かれたこの『手枕』という短編は、はしなくも宣長自身『源氏物語』全編の構成に六条の御息所が不協和音として、どんなに重要な役割を占めているかを、暗に認めている現われのように思われる。」と言い切っているのです。

それでは、宣長をして、ここまでさせる「六条御息所の魅力」とは?それは、次回に。


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