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2月29日(火) 「六条御息所-5」 物語の中の六条御息所と瀬戸内晴美の御息所像

六条御息所の源氏への愛憎を現す情景はたくさんありますが、

例えば、「車争い」の後、寝込んでしまうほどの屈辱感を味わいながら、それでも猶、
「『かげをのみみたらし川のつれなきに身のうきほどぞいとど知らるる』と涙のこぼるるを、人の見るもはしたなけれど、目もあやなる御様かたちの、いとどしういでばえを見ざらましかば、とおぼさる。」などは、
惚れた弱みの極致でしょう。

また、その後源氏は六条御息所の生霊が妻を苦しめていることを知り嫌悪感を催して、ますます間遠になるのですが、
その源氏の冷たさに、伊勢下向をしようか悩む御息所の煩悶を知りながら、素知らぬ呈で、見舞いに訪れた源氏との、心のすれ違う一夜を過して後の朝、
「うちとけぬ朝ぼらけに出で給ふ御さまのをかしきにも、なほふり離れなむ事はおぼしかへさる。」という下りは、寄せては返し、返しては打ち寄せる愛憎の波に翻弄される御息所の哀切な嘆きの声を聞く思いがするようです。

さらに、伊勢下向を決断した御息所が潔斎処の「野々宮」に篭り、源氏が訪う夕べはその頂点を極め、
「心にまかせて見たて奉りつべく、人も慕ひざまにおぼしたりつるとし月は、のどかなりつる御心おごりに、さしも思されざりき。また、心のうちに、いかにぞや、きずありて思ひ聞え給ひにし後、はた、あはれもさめつつ、かく御なかも隔たりぬるを、めづらしき御対面の昔おぼえたるに、あはれとおぼし乱ること限りなし。
きし方、行くさき、思しつづけられて、心弱く泣き給ひぬ。」
互いにその美点と欠点を知り尽くした男女が、だからこそいとおしく、だからこそわずらわしく、ふたなき人と互いに認めつつも、共どもに棲めぬ世を嘆きつつ分かれて行く情景が朝霧にかすむのか、流れ落ちる涙にかすむのか、という哀切な別れの場面を描いています。

そして伊勢下向中に源氏の「須磨流謫」を聞いて届けられる御息所の手紙は
「物をあはれと思しけるままに、うち置きうち置き書き給へる、白き唐の紙四五枚ばかりをまき続けて、墨つきなど見所あり。」という、わが身の果敢なさと、昨日に変わる源氏の有為転変の有様を筆をとってはおき、置いてはとりつつ逡巡を重ねて書き綴った哀れ深い様子が偲ばれてなんともかとも言えぬほどです。

以上のように、源氏物語の前半で、六条御息所の素晴らしい見せ場は数々あるのですが、なんといってもここ一番!これこそ、というのは前回にも書いた「六条邸朝帰りの渡殿の場」だと思うのです。

六条御息所の源氏物語初登場は、例の「夕顔の巻」の冒頭「六条わたりの御忍び歩きのころ」という下りですが、実際に、その姿を現すのは、その「夕顔」も中盤かかかり、いよいよ、惟光の手引きで「夕顔の歌」を詠みかけた女に手づるがつく、という直前のことです。
源氏としては、もう頭の中は新しいその女のことでいっぱいです。その隙間には自分を拒みとおした空蝉に舌打ちをし、さらに彼女が夫とともに伊予の任地に下ると聞けば胸騒がせる、そんな日々です。しかも、ここには原文にもないけれど、もひとつ深い思いがわだかまっているはずです。
また、その深いわだかまる思いがその人と応分に対抗しうる女人としての御息所を求める一因ともいわれるものなのです。

そんな源氏の徒し心を知るや知らず・・・といったって、当然知ってはいたでしょう。カンの鋭い御息所のことですから。ただ、彼女のプライドはそんなことを考えることさえ厭わしい、考えたくない、というのではなく、
もっと強烈に,自分自信が考えることさえ拒絶していたのではないか、と思うのです。そして・・・

「霧のいと深きあした、いたくそそのかされ給ひて、ねぶたげなるけしきに、うち嘆きつつ出給ふを、中将のおもと、御格子ひとまあげて『見奉り送り給へ』とおぼしく、御几帳ひきやりたれば、御ぐしもたげて見出し給へり。前栽の色々乱れたるを、過ぎがてに休らひ給ふへるさま、げにたぐひなし。」という
趣味のよい邸宅の、心利いた召使いを揃えた女主人の、返したくない年下の恋人を、スキャンダルから守るため、無理やり朝早く起こして、返そう、という悲しい思いやり、悲しいつつしみを描いているところです。

ここは、瀬戸内寂聴氏が晴美の頃に書いた「古典の女たち」の描写がいいのです。
「おそらく、御息所は、どこまでも見送りたい気持ちを押さえて、後朝の別れを惜しむこともできないほど、心が張り裂けるように悲しく、衣類をひきかぶって泣いていたのではないでしょうか。その着物にも部屋にも、源氏のたとえようもない匂いがしみこんでいます。御息所の肌にも髪にも、その匂いは移りしみていたでしょう。
今送り出せば、若い浮気な恋人は、いつまた訪ねてくるかわからない。必ず早く来てなど、年上の自尊心の強い女の口に出来ることではない。見送りに立ちかねるほどの嘆きを体いっぱいにたたえて、黒髪をしどけなく乱し、うち伏して泣いている御息所の姿を、作者は書いていないのに、私の目にはありありと見えてきて、―後略」とあります。

そして、その源氏が女主人の代わりに見送りに出た中将のおもとに戯れかかる姿を捉え
「17歳といっても、今風にいえば16歳の少年の心は子どもっぽいわがままさャ、自分本意の残酷さがあって当然でしょう。いつでも早く帰れ帰れという恋人に不満を抱いてすねているかもしれません。その証拠に、そのすぐ直後に、うす物の裳をつけた腰つきを、たおやかでなまめかしいと見て、誘惑したくなり、廊下のすみに押しつけてふざけかかったりしているのです。
こんな不実な男に世間的に噂の種にされるような恋をしてしまった自分を、どれほど自嘲しているか、御息所の嘆きと前途の悲運は、もうすでにあらわれているのです。」となります。

一般に、源氏と六条御息所との場面といえば「野々宮」というのが通り相場で、さきに書いたように、あれはあれでいいと思うのですが,私としては、この「六条邸朝帰り渡殿の場」が、何より好きです。
ここにこそ、あまりに賢すぎ、あまりに洗練されすぎた御息所の悲劇が凝縮しているように思えるからです。

瀬戸内氏は円地氏に引けを取らぬ六条御息所びいきです。また、筆力・描写力も雌雄極めがたいほどの伯仲する分析と観察で読者を引き付けていきます。
「十人十色・『源氏』はおもしろい」という対談集で、氷室冴子氏との対談の中で
「すでに、与謝野(晶子)さん、谷崎(潤一郎)さん、そして円地(文子)さんもやってらつしゃるし、私は円地さんが現代語訳のお仕事をやってらっしゃる時、たまたま同じ仕事場にいたから、それはきびしい産みの苦しみも見てるわけですよ。だから、あんな命取りの恐ろしいことはするもんじゃないと思っていたし、大体が、小説家がああいうことをするときというのは、小説家として創作力が衰えてきたときだなんて生意気なこと思ってたんですね。でも考えて見たら、『女人源氏』をやり始めてから、だんだんと源氏の世界の深間に入って行ってやっぱり新たに自分の訳でやってみたいと取り憑かれてしまったんです。そういう魔力みたいなものが源氏物語にはありますね。」と述べていますが、
いえいえそれはご謙遜!「いつかは私も!」と、固く決意していらしたようなことを思わせる文をあちこちで読みかけます。
折々の描写の中に、円地氏はこうおっしゃっていました、同感同感、ということもあれば、ああはおっしゃつていたけれど、私はこう思う、とかやはり意識も他の先人達へ向けるより多いように思われます。
ただ、やはり、それなりにスタンスの違い、世代の違いもあって、古典的素養の裏付では円地氏に、生身の女のうめきを聞き取る力としては瀬戸内氏に一刻みづつの長があると考えるのは私の勝手でしょう(^^ゞ

そして、「六条邸渡殿の場」こそ、その瀬戸内氏の六条御息所の描写の一番素晴らしい部分だと思うのです。

この瀬戸内晴美著の「古典の女たち」には「私の好きな」という副題が付いていて、「源氏のヒロイン達からは、御息所の他に、朧月夜・女三宮・明石御方・浮舟が取り上げられていて、その当時は、偉く盛り上がっていたものが、「現代語訳」を完了する頃には、たいして好きでもなくなったヒロインもいたりして、瀬戸内氏自身の内面的な移り変わりも感じられて興味あるのですが、この六条御息所だけは
「私は終始一貫して大好きですよ。最高ね。だって六条御息所がいなければ源氏物語は非常に薄っぺらだもの。彼女が現実と非現実との世界を飛びかってくれるから、面白いんですよ。」(「十人十色・『源氏』はおもしろい」氷室冴子氏との対談で氷室氏の「六条の御息所はいかがですか」という問いに答えて)ということになります。

この「古典の女たち」の中では、六条御息所が、源氏と藤壺との仲を見透して、
「勘の鋭い六条の御息所が、自分に対する源氏の愛の源泉を、探り当てていなかったとは考えられません。それでも御息所の嫉妬が、藤壺だけには向けられなかったのは、御息所の自尊心が、藤壺だけは、自分と対等の価値ある女、あるいは、后という位からも、一目置かなければならない立場の女として許していたと考えられないでしょうか。御息所の嫉妬が単なる嫉妬だけではなく、自尊心の傷つけられ方に対する怒りを必ず伴っていたことは見逃せないと思います。」という記述があります。そして
「六条御息所のあはれさは、自尊心と同じくらい、深い情をかねあわせて持って生まれていたということでしょう。
大体、プライドの高い女というのは、鼻持ちのならない冷たい情の薄い女が多いのですが、六条御息所を苦しめたものは、人一倍高い自尊心の裏側にぴったりと密着した、とめどもない愛情とあふれてやまない熱い情熱でした。
自尊心と濃密すぎる情の深さの相克にひき裂かれ、そこから血潮のようにわき出るものが生霊となって宙をとんでいくのではないでしょうか。」と書かれています。

「きいたか藤壺! きいたか明石!」と言いたいところなのですが、この時は、未だ瀬戸内氏は明石御方が好きで、ここにも取り上げているのですよ。嫌気がさすのは「現代語訳」の頃からでしょうか。それはまた別項で(1999年5月20日「空蝉と明石御方」に付記)


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