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4月19日(水) 「六条御息所-8」 六条御息所の死(憑霊現象Bの前に)

さてさて、今度は六条御息所死霊の巻です!
ですから、その前に「六条御息所の死」の場面を書かなくてはなりません。

何度も書いてきたように、源氏の移り気な頼りない愛と、自らの妄執のおぞましさに、遂に御息所は都を捨てる決心をします。娘の斎宮の伊勢下向に同行しようというのです。
この時代は、天皇家始め貴族は熱心な仏教徒ですから、たとえ祭祀のためとはいえ、斎宮や斎院に選ばれる名誉を得たとしてもその官職にある間、「仏のみ教え」から遠ざかるということで、「仏罰恐るべし」「後生恐るべし」という気風がありました。
まして、この場合、御息所自身が当事者ではないのですから、周囲への思惑もあったのです。しかし、六条御息所は敢然と決断して決行仕切ります。このへんが夫亡き後でも、「昔を今に」ときめくようなサロンを主宰していた女主人としての采配振りです。

いざ、女が自分を捨ててしまうと知ると、たちまち源氏はまたも惜しい気分になり、斎宮の潔斎処まで押しかけて行き、御息所をかきくどきます。これが世に名高い「野々宮」の場面です。

「はるけき野辺を分け入り給ふより、いとものあはれなり。」という書き出しでそこははじまります。
「秋の花みなおとろへつつ、あさぢが原もかれがれなる虫の音に、松風すごく吹きあはせて、そのこととも聞きわかれぬほどに、ものの音どもたえだえきこえたる、いとえんなり。」
おとろえつつあるのはいつか燃やした恋の炎か女の色香か、すごくふきあれるは風の音か女の慟哭か、それもこれもが渾然とあたりを支配し重く哀しく「野々宮」の場の幕は揚がって行きます。
そして、源氏は拒む御息所に初手はかくや、と思うほどの熱意で攻め寄り、一夜をともにします。
けれど、それでも、御息所は揺るがない、いえ、それどころか、それが残り火を燃やし尽くした別れの宴となって朝を迎えるのです。

誰の解説でだったでしょうか、野々宮の、この別れを、「女は愛されていない時は分れられない、自分が深く愛されていると知ったときこそ潔く分れられるのだ」という解説がありました。
寂聴氏あたりではないかと、めくってはみるのですが、出て来ません。
(田辺聖子著「源氏紙風船」に「愛されているかどうか確信のもてないとき、人は別れられないものである」という記述がありますが、これは源氏と紫上のことで・・・)
源氏が都に残ってくれ、自分を見捨てるな、とかきくどいた言葉は、たとえその時だけのものであったとしても、一面の真実です。
その刹那的な真実は御息所に十分な別れの潮時を知らしめたのです。でも、嫌で別れるのではありません。切れない未練を、我と我が身を切り裂く思いで経ちきって別れて行くのです。

「出でがてに、御手をとらへてやすらひ給へる、いみじうなつかし。風いと冷ややかに吹きて、松虫の鳴きからしたる声も、をり知り顔なるを、さして思ふことなきだに、聞きすぐし難げなるに、ましてわりなき御心まどひどもに、なかなかこともゆかぬにや。
『(御息所)おほかたの秋の別れも悲しきに鳴くねな添へそ野辺の松虫』
くやしきこと多かれど、かひなければ、明けゆく空もはしたなうて、出で給ふ、道のほど、いと露けし。
女も、え心つよからず、なごりあはれにて、ながめ給ふ。ほの見奉り給へる月影の御かたち、なほとまれるにほひなど、若き人々は身にしめて、あやまちもしつべくめで聞こゆ。(人々)『いかばかりの道にてか、かかる御有様を見捨てては別れ聞こえむ』とあいなくなみだぐみあへり。」

あの「六条邸渡殿の場」の別れの段は、今度いつまた逢えるか、というにしてもはかない望みがありました。今は、その望みを自分で断ち切って別れるのです。この時代では再び生きて、ということも考えられぬ別れではあったのです。

その後の六条御息所母子の伊勢下向、源氏の須磨流謫、その須磨への御息所からの見舞いの手紙のことは「六条御息所-5」の中で述べましたが、同じく都を遠く離れて異郷の月を見る者としての感慨に溢れた哀切なものでした。
そして、源氏が罪を許されて都へ帰り再び我が世の春を謳歌し始める頃、帝の御代変わりで斎宮を辞した御息所母子も帰洛してきます。

「なほかの六条のふる宮をいとよく修理しつくろひたりければ、みやびかにて住み給ひけり。よいづき給へる事ふり難くて、よき女房など多く、すいたる人のつどい所にて、もの淋しきやうなれど、心やれる様にて、経給う程に、にはかに重くわずらひ給ひて、物のいと心細く思されければ、罪深きほとりに年経つるも、いみじう思して、尼になり給ひぬ。」

このあたりにも、六条御息所の面目躍如というカンがあります。
この時代、二年も三年も空家同然にしている貴族邸など、それこそ「某の院」にされてしまうのでしょうが、御息所は、いつかは帰洛する日のために、それなりの処置はしておいたのでしょう。そして、いざ帰邸となったからには、それなりの大修理を施して、更に、更に「昔を今に」甦らせるようなサロンの主に納まってしまうのです。
それでも、月日は残酷なもので、異郷での生活と「仏罰恐るべし」という日々は御息所の健康を蝕み、遂には落飾してしまうのです。
ここで初めて、源氏が見舞いに訪れます。勿論、御息所の帰洛を知ってからは消息などは交していたのですが、そこはもはや大人同士の交際で決して「昔を今に」などとあさはかなことは考えることも無かったのです。
しかし、今生の、となっては、とるものもとりあえず御息所の病床に駆けつけるのも、古傷の名残をいとおしむ人間の性なのかもしれません。また、内心には、かねてから美しく成長しているはずの御息所の姫君に大いなる関心がありました。
ところが、利発な御息所は、そういう源氏の下心を見透かすように先制パンチをくらわしてきます。

「心細くてとまり給はむを、必ず事に触れて数まへ給へ」といいながら返す刀で「思ほし人めかさむにつけても、あぢきなき方やうち交じり、人に心もおかれ給はむ。うたてある思ひやり事なれど、かけてさやうの世づいたる筋に思しよるな。」と言いきります。そして、留めの一言「憂き身をつみ侍るにも、女はおもひのほかにて、物思ひを添ふるものになむ侍りければ、いかでさるかたをもて離れて見奉らむ、と思う給ふる」と言うのです。

さすがに源氏は鼻白む思いで「あいなくも宣ふかな」というのですが、これで、源氏はまんまと権力中枢へ撃ち込む掌中の玉を手に入れることに成るのです。
言うも愚かや、この時代は外戚政治ですから、帝を魅了する美しく賢い娘を持っていることが権力者の最大条件でした。定子・彰子がいい例です。それなのに、この時点で、源氏にはそういう娘がいません。なんせ明石姫は生まれたばかりです。
そこへ、父は先々帝の前の東宮という斎宮もつとめた姫君を、当代切っての数寄者の母親から依頼されたのです。本来なら小躍りしてしかるべき、自分の色気よりそちらが先では、と思うのですが、そこが源氏らしいところというのでしょうか。その遺言の後七〜八日後、六条御息所は亡くなります。

かくて例の藤壺との密談の結果、源氏を親代わりとして斎宮の女御入内、絵合わせの勝利を経て秋好中宮冊立、源氏外戚政治の全盛へ、となるのです。
これはまた、六条御息所の果たせぬ夢を果たしたことともなるのです。かの御息所こそ、やがては皇后の位にも、と我も思い、人も思って育てられ、東宮の女御に立ったのですから。ところが何故にか背の君が突然東宮を辞されて、御息所の望みは絶たれ、失意の内に背の君に先立たれ、あの優雅な六条サロンは、もはや趣味の中に没頭して生きるしかなかった御息所の果敢ない徒花だったのでしょう。

先日、私は(1999年5月11日)「桐壺帝と桐壺更衣との愛」の中で、この廃太子事件を、一の御子(後の朱雀院)を儲けた右大臣一派の執拗な干渉の結果ではなかったか、と書きました。

現実の政界での「小一条院の廃太子事件」は、この執筆当時の後の話としても、類例は現実の中にいくらでもあったように思えます。そこにこそ一条帝が「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ」と言った意味合いがあるのではないか、と思うのです。六条御息所は誰をモデルにしているかといわれれば、かの一条帝の中宮定子と思われますし、その優雅なサロンは定子のサロンをかなり意識して書かれているように思うのは私だけでしょうか。
ここにも、私は紫式部の御堂関白家に対する複雑な思いを伺ってしまうのです。

(「賢木」の巻での六条御息所の入内の年から、右大臣家の廃太子事件との関連は無理という説があるそうですが、私は、そうは思いません。それについては「5月23日六条御息所-10」にて)

源氏に対して、あれだけの執着をみせ、葵上の無礼な仕打ちについては恐ろしい怒りをみせた御息所ですから、自身の后位については並々ならぬ執着があったように思われますが、それについては、例の斎宮伊勢下向の挨拶に参内した時に
「みやすん所、御こしに乗り給へるにつけても、父おとどの、限りなき筋に思しこころざして、いつき奉り給ひし有様かはりて、末の世に内を見給ふにも、もののみ尽きせず、あはれにおぼさる。十六にて、故宮に参り給ひて、二十にて後れ奉り給ふ。三十にてぞ、今日また九重を見給ひける。」という一節だけの記述のみがあるだけです。
もつとも、この短い文の中に万感の思いがこめられていて、短いからこそ、幸せ薄かった御息所の口惜しさが感じられるようにも思えるのです。

しかし、今、六条御息所の果たせぬ夢は源氏の手で我が娘によって果たされました。御息所の魂はやすらかな眠りにつくのでしょうか。


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