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5月3日(金) 「六条御息所-9」 六条御息所憑霊現象B

さて、御息所の死後、源氏はさっそく行動を開始します。
それは「秋好中宮」の下りでも書いた冷泉帝への入内準備です。
冷泉帝は表沙汰にはできませんが我が息子です。その母親(つまり、嘗ての最愛の思い人藤壷中宮、今は剃髪して入道の后の宮です)と密談して、かねてからの朱雀院のご執心を知らぬ顔で入内をすすめます。
勿論、これは冷泉帝政権(?)への源氏の布石です。
既に冷泉帝には頭中将(この時は既に権中納言)の例の弘徽殿の大后の妹腹の娘が入内して、同じ年頃でなかなか睦まじい様子なのです。また、藤壺の兄、というより紫上の父兵部卿の宮も紫上の異母姉を入内させようと大童であるのを横目に、着々と事を運んで行きます。

このあたりは、なんとなく、源氏・藤壺の弘徽殿の大后一派に対する報復劇のような感もあります。兵部卿の宮にしたって、源氏の流謫中紫上に冷たかったりしたくらいですから、当然妹・甥であっても藤壺や冷泉帝には近づかぬ算段をしていたでしょうし、報復されたって文句言える立場ではありません。
後々、髭黒が玉蔓に夢中になって、兵部卿の宮の娘である北の方が実家に引き取られる時、文句を言いますけれど、ね。別に報復とか復讐というのは、六条御息所の独壇場ではありません。

前説で、多いに寄り道してしまいましたが、こうして斎宮の入内は決行されます。
そして立后!御息所の積年の望みも果たし御息所の御霊も安らいだかにみえました。御息所の旧邸はそのまま秋好中宮となった斎宮の里邸として残し、その周りを取り囲むように源氏が土地を買い巡らして六条院という大内裏のような大邸宅を造成します。

しかし、冷泉帝が退位し、秋好中宮と仙洞御所に引きこもるようになり、名実ともに六条院が源氏と紫上を主とするようになると変化はまたも起こってきます。

ま、これは、円地文子氏の「源氏物語私見」を読んで、そのきっかけを指示されたわけですが・・・。
「六条御息所の死霊が、紫上や女三宮に祟るのは、秋好中宮が六条の院から離れて行った後なのである。
御息所の妄執の中には愛欲ばかりでなく、所有欲もあったとみるのは誤りであろうか。曾て自分が主宰者であった六条の旧邸が、愛人光源氏の手で華麗なものに造り換えられ。その女王の座にわが娘の中宮が座っている間、御息所の霊は安らいでいたが、中宮が去り、他の女君が源氏の正妻として六条の院を主宰することに堪えがたい怒りを感じたのではないか。」という「私見」を読み、あっ、と思ったことでした。私としては、従来は明石御方のような、低い身分でいながら「源氏の子」を生んだ女君が呪われないのは不思議、と思う感情がありました。ま、明石御方自身が源氏に愛情を抱いていたか、という疑問がありましたから、だからかな、とも思っていました。

なぜ、紫上が呪われなければならないのか?
あまりにも源氏の愛を独占しすぎたからなのか?
それならば、なぜ、あの時期なのか?(つまり、「野分の巻」とか、紫上の絶頂の時ではなく、女三宮が出現して、形式上にしても紫上が一歩下がらなくてはならない時期)
更に、女三宮、呪われる価値さえあるのかな?という源氏自身の中での存在感です。産んだ子供は柏木の子です。

でも、こうして六条邸への所有欲、といわれれば、多いに納得してしまうのです。女性には独特の所有欲があります。自分が慣れ親しんだ、愛情を注ぎ込んだ物に対しては金銭的価値を超えて執着するものです。
殊に、六条邸は、皇后への道を絶たれた御息所が、その知力・財力を傾けて当代の名流サロンに仕立て上げたところです。それに対する愛着、妄執は並々ならぬものではあったでしょう。
しかも、御息所自身、誰にも頼らず、それらを維持する経済能力・経営能力を身につけていた程の女性です。
それが、自分を裏切りつづけた男が俄仕立てにわが娘を女王に据えている間はともかくも、我が娘が立ち去り、男の愛人達が我が物顔に居座るようになれば再び暴れ出すのは当然とも思われます。更に「私見」では、
「鎮魂されたかに見えた御息所の霊が突然むっくり甦って来て、執念深く復讐を続けるのは、御息所自身ではなくて、光源氏のうちに潜んでいる許されない罪へのおびえの声であるかも知れない。」という記述があり、それは、憑霊現象@・Aにも繋がる思いでもありました。
また、同じ「私見」の中に紫式部の家集に
「『後妻にとりつく先妻の死霊を修法の力で祈り臥せる絵を見て詠んだ』と詞書のついているこんな歌がある。
『亡き人に喞言をかけて煩ふも 己が心の鬼にやはあらぬ』
これをみると憑霊が信じられていた時代にも拘わらず、霊媒的なものを信ぜず物の怪を、当事者自身の良心の反射作用であると見ている式部のリアリズムの面があらわされている。」と述べられています。

こうして考えると、六条御息所の憑霊現象というのは、源氏自身の中にある御息所への罪悪感が御息所の霊を呼び覚まし引き寄せる、という意味でもあるのかもしれません。「私見」の中には、「天皇の血統をうけて生まれて来た源氏を動かすものに、古代からの巫女的な能力が存在する事も確かであろう。」という記述もありました。
私も10月10日「宮家のお姫様」の章で、内親王を「神に嫁ぐべき未通娘であり、神の声を聞くべき巫女という役割」を振り当てましたが、親王という出自(実際にはなっていないけれど)であるべき源氏にもそういうことはいえるのではないか、と思います。


「男が永遠に愛しつづける女性の原型があるように、永遠に怖れる女性もある筈である。それは、男性の悪の影法師かもしれない。六条の御息所はそういう女性のシンボルである。」――これは、円地氏自身が著作「女面」の中で「野々宮記」として著したものの「源氏物語私見」への転載であるが、これを以って六条御息所の定義と言っても良いと思うのです。

いや、しかし、六条御息所という女性は大した女性です。何より近代的な要素が多い!何度もいうような独立した経済感覚!あの精神的な打撃を受ける症状としても、それだけの精神活動!そして、怨念といわれても、自分の意志を通さずにはおかない自我の強さ!
これらは、みんな紫式部が創作したもの!なのでしょうか?




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