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5月23日(火) 「六条御息所-10」 六条御息所の憑霊現象C

さてさて、いよいよ二部に登場する「六条御息所の物の怪」ですが、憑霊現象の2、3で取り上げたのは、御息所が生きている時ですから「生霊―いけすだま」。この、二部では死後の物の怪で「死霊」ということになります。
ここで、ちょっと触れておきたいのは、物の怪は、御息所の独壇場ではない、ということです。

「六条御息所-7、憑霊現象A」の円地氏「私見」「源氏物語の正編中では六条の御息所にだけ規定して憑霊の働きを述べているだけで・・・」という文に対しての異論になりますが、
あの、「明石」の巻で、須磨の大嵐の夜に夢枕に立った父帝が、「住吉の神の導き給ふままに、はや舟出してこの浦を去りね」と宣はす――のも、
「朝顔」の巻で紫上のご機嫌とりに、あれこれの女君たちの噂話をした夜、藤壺が夢に現れて「漏らさじと宣ひしかど、うき名の隠れなかりければ、はづかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」と宣ふ――のも、物の怪とは言えないまでも、「物の怪―死霊」の一種と言えるのではないでしょうか。
それは、源氏に悪影響を及ぼさぬ限り、「物の怪」とは言われぬだけで、事実は、源氏自身の中に潜む罪悪感に呼応した源氏自身の同種の精神作用のなせる現象なのではないか、ということです。

思えば夕顔の時も、源氏が六条御息所を思ったとき、その物の怪は現れました。葵上の時は、源氏は葵上出産のため忙しく六条邸を訪れる事ができないことに忸怩たる思いを持ち、御息所は、斎宮の伊勢下向に備えて野々宮におこもりするためにただでさえ心細く、また葵上出産のこともあって、神経を尖らせている時でした。

これについては、前回「六条御息所-9」でも引用しましたが、円地氏の「源氏物語私見」の中で取り上げた自著の「野々宮記」からの一文ですが、
「天皇の血統をうけて生まれてきた源氏を動かすものに、古代からの巫女的な能力が存在することも確かであろう。―中略―そういう巫女的な能力を光源氏に及ぼしている六条の御息所の存在が、全編を通じて強い不協和音になって、『源氏物語』のシンフォニーを完成していることは疑えないように思う。」という意見があり、「AERA別冊」の藤本勝義青山学院短大教授の一文の中に「光源氏だけが御息所の物の怪と対面しているのです」という示唆があります。

ことに、紫上に取り付く物の怪は、例の女楽の後、またも性懲りなく源氏が女性論を展開した後で現れます。源氏がノー天気な持論を展開し、紫上に幸福感の押し売りをして女三宮の許に行っている時、俄かに紫上が発病します。源氏の一身を打ち込んだ看病にも一向回復の様子は見られません。これが六条御息所の物の怪の祟りというわけです。本文中には御息所とは書かれていませんが、「物の怪の話の内容」はまったく六条御息所のことばなのです。その上、「この人を深く憎しと思ひ聞こゆる事はなけれど」と言って、源氏自身に祟りたくとも、守護霊が強くて祟れないから、こちらに祟った、という具合なのです。つまり、紫上を源氏の身代わりとして祟っているのです。しかも、源氏にとって紫上が誰よりも、というより、源氏自身と思われるほど大事な女君と知って、
「同じくは思ひ知らせむと思ひつれど、さすがに命もたふまじく、身をくだきて思し惑ふを見奉れば、今こそかくいみじき身を受けたれ、いにしへの心の残りてこそ、かくまでも参り来るなれば、物の心苦しさをえ見すぐさでねひひにあらはれぬること。さらに知られじと思ひつるものを」とて、髪を振り乱して泣くわけです。

ここで、一度こと切れた、と思われた紫上は、こうして、蘇生し一時の小康状態を得るのです。その折の、源氏の喜びようはたとえようもなく、
「御髪おろしてむ、とせちに思したれば、忌むことの力もやとて、御いただき、しるしばかりはさみて、五戒ばかり受けさせ奉り給ふ。」というのも、身勝手な話なのですが、源氏はどうしても、紫上を手放したくはないのです。ま、その折の御戒の師僧がありがたいお説教をしてくださる最中にも、外聞もなく紫上にくっついて、涙ふきふき、一緒になってお経を唱え、どんなことをしてもお救いくださいと夜昼なく祈り続ける、あの見栄っ張りな男が!!これじゃ、御息所でなくとも、相当気分悪い、と思いますがね。紫上に取り憑く物の怪は正しく嫉妬です!嫉妬以外の何物でもない極単純な嫉妬だと思います。しかも、それは本来源氏が受けるべき祟りだった筈なのに、源氏の守護霊が強いから紫上を身代わりにしたという、これは御息所の霊が源氏と紫上を一体視していると言えると思います。或いはまた、源氏自身の中にそれゆえにこそ、他の女君たちの恨みを買っているという忸怩たる思いがあることを示してはいないでしょうか。そして、源氏自身が罪を受けるわけには行かないなら、源氏の身代わりとしてその罪を受けねばならぬのは紫上以外にないのです。

大体が御息所が(正体をあかして)取り憑いたのは、葵上・紫上・女三宮だけなのですよ。つまり光源氏の正妻・準正妻だけなのです。夕顔こそ取り殺された第一号のようですが、このときは「いとおかしげなる女」とのみで、御息所なんだろうなぁ、という雰囲気だけなのです。「夕顔」の巻が挿話的なものなので、正体をはっきり書かなかったという意図もあったかもしれません。
しかしながら、六条御息所が取り憑いた女君が源氏の正妻(準正妻)達ばかりだというのは、藤壺を自分と対等か或いはそれ以上と認めて赦し、葵上・紫上・女三宮を自分より以下ではあるが、嫉妬の対称にしても良いほどの値打ちを認め、御息所自身の無念の表現の的としたという意味合いでもあるのでしょう。
また、もう一面において、東大教授藤井貞和氏は、その著「源氏物語入門」の中で、紫上と明石御方の比較に際して、「紫上は嫉妬する人としてある。明石の君はそれをしてはならない。嫉妬とは日本神話に徴してみると、嫡妻にだけ許された特権的心情であろうか。」と述べていますが、六条御息所と源氏・藤壺の関係は、そういう見方もできるのかもしれません。
明石御方については、源氏の子を産むのに六条御息所から何の嫉妬も受けず、祟られもしないのは、問題外の身分の低さと、早々に女としてではなく母になってしまうからなのでしょう。

源氏が、そうして紫上のことしか考えられなくなっている隙に女三宮は柏木に襲われて不義の子を身ごもります。そして、出産後に、源氏の留めを振り切って出家を遂げます。ここで、また物の怪が現れるのです。
しかし、私は、この物の怪ばかりは源氏自身の罪悪感によるものとは思えないのです。

「かうぞあるよ。いとかしこう取り返しつと、一人をば思したりしが、いと妬しかりしかば、このわたりにさりげなくてなむ、日ごろ候ひつる。今は帰りなむ」とてうち笑っているのです。
このあたりは、全く同情の余地のない悪霊なのですが、それだけなのでしょうか?
女三宮は朱雀院の娘です。もし、御息所の背の君の癈太子事件が右大臣家の一の皇子出生にかかわるものであるなら、朱雀院父子はその責めを問われても致し方ないところでしよう。

私あたりが考え付くことですから、もう、とうの昔にそうした説はあったようです。しかしながら、「賢木」の巻での「十六にて故宮に参り給ひて、二十にて後れ奉り給ふ。三十にてぞ、今日また九重を見給ひける」という記述から、その説は無理、ということで、立ち消えになってしまったらしいのです。
しかしながら、その記述をそのまま当てはめると、故宮ーつまり御息所の背の君たる前東宮の存在すら無かったことになってしまうのです。

当然のことながら、前東宮は右大臣家一の皇子(朱雀院)の立太子以前に桐壺帝の東宮であったはずですが、御息所の「賢木」での年齢を考えれば、その東宮在位は、源氏が9歳の頃、ということになって、当然のこと、朱雀院は立太子しており、逆に、朱雀院立太子前に東宮が空位だったことを考えれば、その時にこそ、御息所の背の君の前東宮が在位していたと考えるほうが無理がないと思うのです。
そこで、無理が生じるのが御息所の年齢で、源氏との歳の差(7歳ということになっている)を十歳加えれば、筋はとおるのではないか、と思うのです。
つまり、桐壺更衣逝去の年、源氏三才、その折御息所二十歳で前東宮に死別、それに先立つ四年前に東宮に入内していて、その四年間のうちに、東宮は何らかの理由で東宮の御位を降りられた、と。
その間に、あるいは前に、朱雀院は右大臣家の一の皇子として生まれている、と考えればいいのではないか。
そうすると、「九重」に再び立った時、御息所は四十、源氏と初めて遭ったときは三十半ばになるかならぬか・・・それでは源典侍になってしまう?しかし、御息所は美しいのです!!17歳と34歳、それほどおかしくは無いと思うのですが。といっても、最初はやはり、7つ違いくらいで物語を薦めていたのでしょう。ところが、状況設定と年代の差に齟齬があることを途中で気づいてしまう、さあどうしよう?
ことさらに「賢木」で御息所の歳を数えたのは、思わぬシチュエーションの誤りに作者が慌ててこじつけた!と考えるのは、「困った愛読者のこじつけ」でしょうか?どの人も、この時何歳と、確と書かれていることの殆どない「源氏物語」で、ここたげこれほど明確に、というかあからさまに何歳で何をと細々とことさらめかしく書いてあることも私にとっては疑問の種です。

おもえば、なんでも源氏と張り合う頭中将がなぜ六条サロンに現れなかったのか?勿論、葵上を妹とする身としては、義弟の愛人宅ではもっての他、ということも言えますが、それは、少なくも源氏が御息所を愛人にした十六〜十七歳くらいになってからであるのでは。源典侍さえ張り合う仲の二人です。それ以前なら競うように御息所を張り合ってもおかしくはありません。それより、右大臣の四の君の婿となっている身としては、名にし負う当代のすき者、ことごとにつどいあへりと聞くにも、過ぎぬる方、右大臣の横様なりしことども思しては、御息所の御気色もいとはずかしううたてしとて、さらにはえ参り給はずなりぬ、ということではなかったのでしょうか。
まぁ、このあたりは、想像する者勝ちですね!
学者ではなく、一人の源氏ファンとして、こう読んだら面白い!こう読みたい!という「私の源氏物語」です。




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