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7月5日(水) 「光源氏と紫上-2」 紫上という女性

もう、何度も書いてきましたが、「源氏物語」は女君の登場の仕方、ま、平たく言えば、源氏の「見染の場」ですね、それぞれ工夫が凝らしてあり、それが「源氏物語」の特徴のひとつとされています。例外が見上げる女君である藤壺と六条御息所、そして朝顔宮ということになりますが。

なかでも、この紫上の登場には、物語中随一のピュァな情景と新鮮な驚きとが、鮮烈なまでの美しさを秘めて表されています。それは、彼女がいたいけな少女というより、幼女に近いということが大きな条件になっているように思います。文中では「十ばかりにやあらむと見えて」とありますが、ま10歳前後なのでしょう。
そう、この源氏物語の中で、子ども時代から描かれている女君は源氏の娘の明石姫と、夕霧と筒井筒の恋を語る雲居雁を除けば彼女だけなのです。明石姫は問題外、雲居の雁にしたところで、登場したときには、すでに夕霧と恋を語るまでに成長しているし、こちらは夕霧世代の話しとして関係外とすれば、子ども時代の書かれている女君は紫上だけなのです。源氏物語は源氏に添って成長し恋に生き、愛に傷つき死んでいった彼女の一代記でもあるのです。

紫上は源氏の祖父と同じく按察使大納言を勤めた人の娘が兵部卿宮と契って生まれた娘であり、その本妻たる北の方の身分が高く、勢力があり兵部卿宮も一目置く人であったことなども、桐壺帝と弘徽殿女御との関係によく似ているシチュエーションです。
まして、原文中に、北山の僧都(尼君―紫上の祖母―の兄)の話しとして
「娘ただ一人侍りし。亡せて此の十よ年にやなり侍りぬらむ。故大納言、内に奉らむなど、かしこういつき侍りしを、その本意のごとくもものし侍らで、過ぎ侍りにしかば、ただこの尼君一人もてあつかひ侍りし程に、いかなる人のしわざにか、兵部卿の宮なむ、忍びて語らひつき給へりけるを、もとの北の方、やむごとなくなどして、やすからぬ事多くて、明け暮れ物を思ひてなむ、なくなり侍りにし。」
と書かれているのを読めば、源氏の出生そのままが語られているようです。

つまり、源氏自身をかえりみても、たとえ更衣にしろ、紫上の母は入内できるような家柄であったことがわかりますし、父親が、兵部卿宮であることを考えれば、もし、本妻たる北の方に娘がいなければ、当然入内できる身の上だったということです。まぁ、実際は、本妻に娘が二人も三人もいて、一人は入内しますから(冷泉帝に入内した王女御)、もし、母親が生きていて兵部卿宮の庇護の下にあったとしても、入内まではできなかったでしょうが、とにかく孫王ではあったのです。
紫上の身分の限界は「若菜・上」で女三宮の源氏への降嫁を考えるときの朱雀院の言葉「式部卿の親王の女おほしたてけむやうに」という表現なのでしょう。玉上卓琢爾氏の注釈に寄れば「『式部卿のみこ』と重々しくいい、『むすめ』と軽く言う。親王は朱雀院の一族であるが、紫は庶子である。」ということに尽きるでしょう。親王の正室の嫡子であれば、普通は「姫君」、朱雀院のことばとしても、「御女(おんむすめ)」くらいは言ってもらえるはずですから。

いずれにしても、二人の出生、境遇、それ自体が非常に源氏と紫上は酷似している、と考えています。

能力的には、源氏の須磨流謫の折りには、
「よろずの事、みな西の対に聞こえわたし給ふ。領じ給ふ御荘、御牧よりはじめて、さるべき所々の券など、みな奉り置き給ふ。」とありますから、その時所持していた一切合切を紫上に預け、更には、
「それよりほかの御倉町、納殿などいふ事まで、少納言をはかばかしき者に見置き給へれば、親しき家司ども具して、しろしめすべきさまども宣ひあずく。」というわけです。挙句の果てにはお手つきの女房まで!?

そして、二年半余り、その留守宅を守り切るわけです。このあたりは、六条御息所には及ばずとも、かなりのしっかり者だと思うのですが。
それに、下司のかんぐりで言わせていただければ、この流謫の帰洛後にも、決して源氏は、一度譲った権利書など紫上からとり返しはしなかったであろうと言う事。
そんな無粋な事は一行たりとも書かれてはいませんが、当時は、昔の官位に付いていた禄などは当然のこと、もはや、日の出の勢いとなった源氏のところには流れ落ちる滝の溜まりのように、あちこちから寄進が続いたものと思われますから、紫上に与えたものをとり返すことなく、源氏は昔日の輝かしい日々を再現する事はできただろうし、
ひとたび、君の物と数えまししものども、こころやすきままに使え召せなど宣ひて、中将、中務など、対の上の御許に止め給ふ。まいて、さるべき所の券など奉り置きた給へるものども、今更に戻し給はず、二つならぬ身に侍れば、いずちに置き奉りても同じきものとて上の手許にぞ止め給ふ――なんてどうでしょ?
これで、紫上自身の私有財産はできたはずなのですよね。ここが、私としてはポイントなのですが、それはまた。

手蹟の見事さは、源氏に、朧月夜と秋好中宮とを加えて当代の上手と言わせているわけですし、明石姫の裳着の薫香の調合の折には、「対の上の御は、三種ある中に、梅花華やかに今めかしう、少しとき心しらひ添へて、珍しきかをり加われり」というハイテクニックな調合をして、兵部卿の宮(これは紫上の実父とは違う人)から「この頃の風に類へむには、さらにこれにまさる匂ひあらじ」と賞賛されるのですから六条御息所に及ばずとも遠くはありますまい。

さて、紫上の容貌。これは美しいに決まっていますが、どういう美しさかと言うと、紫上の様子を表す言葉に「はなやかにいまめかしく」とか「にほひなまめきたる」という表現が使われているけれど、一番外見的な美しさを描いているのは、「野分」の巻で、夕霧が垣間見た感動を述べる下りですが・・・
まず、源氏が、初めて北山で透き見した折には、「あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじう生ひ先見えて、美しげなるかたちなり。」という記述の後、北山の僧都に身元を聞いて、藤壺の姪と知ると「御子の御筋にて、かの人にも通ひ聞こえたるにや」という感想があり藤壺に似ているということになります。

で、その藤壺は、源氏の母たる桐壺更衣にウリフタツというはずなのですから、紫上は桐壺更衣にも似ているわけですが、桐壺更衣の具体的な容貌というのは、これが書かれていないのですよ。桐壺更衣だけでなく、例の高貴な三美人(藤壺・六条・朝顔)などは勿論。具体的に書いてあるのは例の「末摘花の普賢菩薩の乗り物」とか、花散里の髪が薄いとかくらい・・・あ、髪が豊かというのはあちこちの美女の形容に使っていますが、その他の具体的記述は・・・

まぁ、桐壺更衣は、「おぼえいとやむごとなく、じゃうずめかしけれど」とか「わが身はかよわく、ものはかなきありさまにて」などという雰囲気描写があり、死後は「物思ひ知り給ふは、さまかたちなどのめでたかりしこと、心ばせのなだらかににくみがたかりしことなど、今ぞおぼし出づる。」のですが、はて具体的な容貌というと・・・まぁ桐壺帝が後宮三千人の美女の中からゾッコン惚れこんで、「世になく清らなる玉のをのこ御子」のご生母様になったのですから正しく傾国の美女だったのでしょうが、とにかくわからない。しかも、その桐壺更衣とそっくりだという藤壺は更衣の性格とは似てもにつかないしっかり者だと思うからますますわからなくなってきます。
その藤壺は、例の青海波(紅葉賀)折りの感興を詠んだ歌から「かやうのかたさへたどたどしからず、ひとの朝廷まで思ほしやれる、御后言葉の、かねても」と源氏に思われるのですから、ま、たいした素養をお持ちだったのでしょう。

そこで紫上ですが、「若紫」の巻で、の北山のすき見の場面では、
「さるは、限りなう心をつくし聞こゆる人に、いとよう似奉るれるが」という表現があります。また「賢木」では、藤壺に手ひどく拒まれている源氏が、物陰から藤壺の様子を除き見て、「かんざし、かしらつき、御ぐしのかかりたるさま、限りなきにほはしさなど、ただかの対の姫君に、たがふ所なし。年ごろ少し思ひ忘れ給へりつるを、『あさましきまでおぼへ給へりつるかな』と身給ふままに、少し物思ひのはるけ所ある心地し給ふ。」とありますから、このころ(紫上14〜5歳くらい?)はよく似ていたらしいのですが、長じて後は、紫上自身の美しい様を書き出だすことに汲々として、藤壺!?は!?というように思えます。それより、もう、この時は、紫上が藤壺に似ている、という感じ方ではなくて、藤壺が紫上に似ている、という感じ方をしているのです。大体が、二条院に秘匿された折に手習いをさせようとした折には、「なに心なくうつくしげなれば」から「筆とり給へる様の、幼げなるもらうたうのみ覚ゆれば」という表現から始まって、藤壺に似ているとは全く書かれてはいません。

紫上の美の絶頂は「野分」で思わず透き見してしまう夕霧の感想に尽きるでしょう。
曰く――見通しあらはなる廂の御座にゐ給へる人、物に紛るべくもあらず、気高く清らに、さと匂ふ心地して、春の曙の霞の間より面白き樺桜の咲き乱れたるを見る心地す。あぢきなく見奉るわが顔にも移りくるやうに愛敬は匂ひチリテ、またなく珍しき人の御様なり。
――というのが一番端的な表現でしょう。

後に、「若菜・上」で降嫁した女三宮に我から挨拶に出る場面で、その幼さと比較して
――あるべき限り、気高う恥づかしげに整ひたるに添ひて、はなやかに今めかしく、にほひなまめきたる様々のかをりをも取り集め、めでたき盛りに見え給ふ。去年より今年はまさり、昨日より今日は珍しく、常に目なれぬさまのし給へるを、いかでかくしもありけむと思す。
――という記述がありました。本来なら「(女は)盛りより蕾」というところなのに、ここでは爛漫の花盛りの美を誇る紫上の賛辞でいっぱいです。

性格的には「若菜・下」の女楽の翌日の源氏との対話の中での
「君こそは、さすがにくまなきにはあらぬものから、人により事に従ひ、いとよく二すぢに心づかひはし給ひけれ。さらに、ここら見れど、御ありさまに似たる人はなかりけり。いとけしきこそものし給へ」というのが源氏のおべんちゃらも幾分感じぬわけではありませんが、いいところでしょう。

そういえば、夕霧も「若菜・上」の中で女三宮の他愛のなさに比較して
「げにこそあり難き世なりけれ。紫の御用意気色の、ここらの年へぬれど、ともかくも漏りいで見え聞こえたる所なく、しずやかなるをももととして、さすがに心美しう、人をも消たず、身をもやむごとなく、心憎くもてなし添へ給へること」と述べております。

先に取り上げている、円地文子氏の対談集「源氏物語のヒロインたち」の中では、清水好子氏とともに、そのへんのところを、(また長くなりそうですが・・・)
清水―明石の上が懐妊した時も、紫の上にすぐ白状しますでしょ。
円地―そう、そう。なんでもすぐ知らせる。それが源氏の愛情らしいんですが、知らないほうがゐいだろうと思うことまで知らせる。
清水―男の側からいえば、それが愛情なんでしょうね。
円地―よそから知られたりするのをたいへん恐れているわけね。世間をとっても大事にしてます。世間でこういいやしないか、それは恥ずかしいとか、始終気を遣っている。
清水―狭い社会であるという以外に、私は、貴族の誇りがあるように思うのです。
円地―そうかもしれません。
清水―紫の上に白状する手紙は、とてもしみじみとしてよろしいですね。紫の上からの返事もいいですし…。
円地―おしまいのほうに針をぴょっとのせたりね。そういうことは思いもかけなかったけれども、とあつて、あやしいお物語をしていただいて、というふうなことが出てくる。
清水―その点、紫の上は、わりに勘が鋭いですね。
円地―とても鋭い。明石に対してはずいぶん嫉妬してますね。なかなかむずかしい奥さんのところもある(笑)。
清水―でも源氏はとても信頼してますでしょう。明石の上の娘を紫の上に預けるくらいですから。
円地―大変な信頼ですよ。明石の上から奪っちゃうんですものね。その娘が東宮の女御になって男の子を生む。これは紫の上にとって一つの政治でもあるわね。
清水―紫の上は、あれで一生安泰ですね。
円地―将来は皇后のお母さんということになりますから。
清水―あれは、源氏の紫の上に対するたいへんな処遇ですね。
円地―それもあったろうと思います。

この対談の部分に先立つ部分に
円地―前略―朱雀院の女三の宮が来てから、だいぶ苦労しますけれども、源氏の気持ちは、かえって深くなるくらいのものですからね。おしまいのあたりはほんとにいいと思います。
―中略―
清水―源氏が紫の上の良さを改めて知りますから・・・。
円地―そう、よさを味わって夫婦仲が深くなるような感じがいたしますね。
清水―「幻」の巻は、源氏の紫の上追悼の巻ですものね。妻の喪は三ヶ月ですのに、まるまる一年間喪にこもるために費やされています。

要するに紫上は精神的にも容貌的にも「美」の権化、瑕無き珠、理想の女性、完全な女性、と称えられていて、源氏の愛に包まれて幸せな生涯を送った、ということになるのですが・・・。

円地氏の「源氏物語私見」では、
「彼女の欠点は源氏の愛に馴らされて嫉妬ぶかいことであるが、それさえ魅力にしてのけるほどの優婉な情趣を心身に湛えている。」と述べられています。

なるほど、さすがに源氏物語のヒロイン!というのは、チョイ待った!でありまして、この完全無欠な紫上ヒロイン説にはやはり、異論があるのです。
それが、肝心の円地氏から出ているのですから、紫上ヒロイン考については次回。





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