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11月30日(木) インターミッションA

11月29日「源氏物語」をカルチャーセンターで聴く

W大学のN教授の人気講座なのだそうです。先の「源氏物語絵巻」展に誘わなかったとお叱りを受けた友人からの再度のお誘いで行って参りました(^^ゞ
アホネーチャンも高校のとき学校に来て頂いて講義を伺ったそうです。
資料も同じでした(^^ゞ

だから入門編か?と馬鹿にしていたところもあつたのですが、なんのなんの、お集まりの方々はなかなか詳しそうな方たちで、
友人の隣りの席におすわりになっていたおば様は、使い込んだ大学ノートに本文模写のコピー持参でオ〜!
それに、こういう講座はおば様ばっかりかと思いきや、けっこうおじ様もちらほら(^.^)

一時間半の時間内で、藤壺・紫・葵・明石・六条と超駆け足ながら原文もちょっと読みながら・・・
その原文を読む時の先生がとっても幸せそうなお顔して、うっとりその世界に入っているようなのです。
ホントに源氏が好きで、好きでという感じ!
前に、「AERA別冊の源氏特集号」の諸先生方の解説のことをとりあげたHPで(源氏関係の本を紹介するサイト)
「学者と言っても要するに源氏フリークの集まりなんだと納得した」とかかれていたけれど、私も大いに納得(^.^)

まず、最初に、「藤壺」のところでの原文紹介に、例の衣を脱いで源氏の手から逃れ出ようとした時に、
衣を脱いでも、丈成す黒髪が源氏の手に残り逃れきれないという場面をあげ、
最後の「六条御息所」のところで、何度も着替えても髪を洗っても芥子の匂いがとれない、という場面を上げて
「髪は女の命」といわれた時代に、それぞれの宿命を象徴する「運命の黒髪」という解説があってこれは良かったです。

私としては、藤壺の黒髪は、紫上が病臥中に髪を洗った時の黒髪と対比して見ていたこともあったのですが、
なんとなく材料不足というか、書けない気がしたのですが、
六条御息所の例の黒髪も加えれば、なるほど「運命の黒髪ねぇ〜」と納得。

後、「葵上」について、その死後の前後には心弱くなった葵上が生来の優しさを表出してくることなどに触れ、
「作者は葵上にかなりの愛情を注いでいた」とおっしゃり、ちょっとびっくり!
私としては、葵上と弘徽殿はプロット上の「役回り」的キャラクターで、だからこそ歌もなく、
役の重みのわりには、あっさり殺されたりひっこんだりするのだ、という風に考えていましたので、
ふうん、そうかぁ・・・という感じ(^.^)
大体Moriさんとこで葵上がけっこう人気キャラなんだと知ったときびっくりしましたもの(^^ゞ
ま、私も弘徽殿は好きですから、文句言えないけれど(^^ゞ

源氏店「光源氏と紫上」が終わったら、円地文子のテーマからとって「歌のない女たち」ということで
二人を取り上げようと思っていたのに、ちょっと考え直さないとダメかもしれないな・・・などと(^^ゞ

それにしても、この時間に取り上げた女性たちは、みんな先生のお好みなのね、と思うほど、優しい好意的な解説をしていらっしゃいました。
私のように藤壺は嫌い!明石は嫌い!というのはやはり学者にはなれません(^_^;

終了後の質問では、やはり「定子・彰子の時代には受領の娘でも関白家の正室になって、その娘が入内してもいいのに、なぜ明石御方は、そんなに身分が問題になったのか」と言うのが出ました。
先生は「この時代はそうでしたけれど、『源氏物語』の舞台になっている時代は大体醍醐・村上帝の時代で、その頃では許されなかったのですね」という説明をしていらっしゃいました。

そうなんですよ〜!私も、源氏のまとめで、それを書きたかったのですけれどね。
もともと、一条帝から「この人は日本紀をこそよく読むべけれ」と言われた紫式部ですから、それなりの皇国史観を当然持っていたと思うし、自分は受領階級の出身ではあるけれど、だからこそ、「内親王でなければ皇后には立てない!」という奈良時代の規律が好ましかったのではないか、と考えているのです。藤壺は内親王です。秋好中宮は孫王ですが斎宮まで勤めていれば内親王格といってもよいでしょう。だからこそ明石姫を双方ともに天皇家の血筋(源氏)の子に仕立てる都合があったのではないかと私は思うのです。そこには藤原氏の一族でもある紫式部の、現政権の藤原氏に対する強い反発があったのではないのでしょぅか。

2001年10月30日(木)付記
今日又も、N先生のカルチャーセンターの特別講演を伺ってきました。
今回は紫式部ーその宮廷生活と源氏物語―というテーマで、紫式部日記をもとにしてあれこれで大変面白かったです。
で、あつかましくも、去年の「源氏物語の女性達」の時に「紫式部は葵上に対してかなりの愛情を注いでいた」とおっしゃつた訳を伺ってきました。
そうしたら「それは正妻の重みです」とおっしゃいまして、
「あの時代多くの妻があつても、正妻はただ一人なんですね。葵上の源氏に対する態度は、あの時代の最上級の貴族の娘が上流貴族の男に嫁いだら当然のことですから。とりたてて気持ちの表現は書いてはありませんが、当然の振る舞いと、それから、死の間際に少しですが、気持ちを出していますね。それに、源氏は後継ぎの夕霧を生んでくれたことを大変感謝しています。だから葵上の死後も左大臣邸を度々訪れますし左大臣を大事にします。それほど正妻というのは重みがあります。
兼家だって道綱の母と時姫は同じではありませんね。決して時姫のそばにずっといるわけではなく、道綱の母のところに行ったり、町の小路の女のところに行ったりしますが、違うわけですね。」とのことでした。(話し言葉のメモなので、ちょっと脈絡不十分かも(^_^;)



☆☆☆ーーーー☆☆☆



そういえば、その夜NHKで三田村雅子先生の「源氏物語講座」があって、その例の「紫上の病臥中の洗い髪」の場面の解説で、
「蓮の花の露」ということをキーワードにして、
@紫上が具合が悪くなるのはいつも源氏が女三宮の下にいるときである。
Aそれは紫上が、潜在意識の中に、源氏の心を取り戻すには具合が悪くなることしかない、という気持ちがあるからだ
B源氏が紫上の少しよくなった状態を見て、早速今度は女三宮の元へ行こうとする態度を見て再び触れ合ったと思われた心が、また行き違ってしまう、
「蓮の花の露のはかなさはそれを表している」という解説がありました。
勿論、そういうこともあるでしょうけれど、私としては、やはり、この時は、既に再び心が触れ合うかどうか、などという段階には程遠く紫上の源氏への絶望は深いのだと思います。「蓮の花の露」は紫上の命のはかなさと源氏の愛の脆さを象徴しているものだと考えます。

せっかく再び触れ合った紫上と源氏の心が行き違ってしまうというくらいなら、紫上はここまで追い詰められてはいないのはないでしょうか。もはや、この時には、源氏との愛は今生のこれ切りのものである、自分は、いや人とは一人で死んでいく身、との見定めができていると思うのは、私のひいき目でしょうか。だからこそ、六条院の女主としての生き方として、最後の勤めのように朧月夜の出家のしたくも、女三宮の出家の世話も淡々としていくのだと思うのです。
ただ、「御法」の巻きでは源氏は紫上が気がかりで出家できない、紫上は源氏の許しがなくて出家できない、というもたれあいの絶頂の様子が見られます。源氏に絶望しきっていても、やはり振り切ることのできない恩愛の絆しはまさに一蓮托生の二人だからこそなのでしょう。



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