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2月20日(火 「明石姫」 

手遊び――へったくそな小説は読まされるほうの大迷惑!絶対書くべきでない、と思っていたけれど、明石姫の分は、なんとなくこういう形式にしたいと前から考えていたので、恥も外聞もなく小説形式で書きました。どうせ、下手な文章を読まされるにしても、小説だとその稚拙さがめだつ、ということは百も承知、二百も合点ですが、今度だけはm( )m



男は上機嫌で自分の居間に戻っていった。残された女二人、年嵩のほうの女も満足げな様子でひとり何事かを呟いた。

「我が宿世いとたけし」心うちの喜びをひた隠すように袖で胸を覆ったとき、ふと背後に冷たい風が流れた。
「女御様・・・」と言いかけて、若い方の女の冷えた視線に行き会った。

「お嬉しそうですこと」その声も今まで聞いたことのないような声音であった。

先ほどまで、祖父なる人からの手紙を共に涙しながらに読んでいたはずの娘であった。
思えば、この娘は私が実母であると露わになったときも、さすがにその刹那は驚きも衝撃もあったようだが、その後も淡々とした振舞い方で人目をそばだてるようなことはなかった。人のいない二人きりのときでも、殊更の感情を示すでもなく、ひたすら女御と後見役あるいは女房頭の役割を演じきっていた。それが、双方の身のためでもあり、あのお方に対する礼儀でもある。そういうことをわきまえている娘を、私はさすが我が娘よ、と内心で誇ってもいた。誰に対しても優しく穏やかで、いつも微笑を絶やさずにいることも、誰に対しても行き届いた対応の仕方で、誰をも特別扱いをすることはない。わたしとても・・・勿論寂しくないといえば嘘になろう。たとえば、回りに人目もなく草子など読んでいるとき、ふと、目を挙げて、あの子を見つめている私と目が合ったときなどは、かすかにでも母よ、という眼差しで見て欲しい、という思いはあったけれど。
しかし、今、あの子の声も、眼差しも冷ややかでいつもの、あのうらうらとおおらかな女御様はどこに言ったのだろう、と思うほどだ。

「お嬉しそうですこと」
「はい、有り難きご縁の端に繋がりまして、数ならぬ身の勿体無いお役目を被り、尊き御身の回りのお世話をさせていただきます事は・・・」
「そうですか、それはよかったこと、子を捨てた甲斐がありましたね」
「捨てた?捨てた・・・と!今捨てたとおおせでございましたか」
「そう、捨てた、と。それとも売ったと言った方がよろしくて?」

相変わらず、冷えた声だ。氷室の中に突き落とされても、これほど身も心も凍ることはなかろうに、と思うほどだが、私は耐えた。心を静め、殊更穏やかに問うた。
「何を仰せになりますやら。子を捨てたことも、ましてや売るなどとはもってのほかのことでございます」
「そうですね。あなたのお預かりのあの邸内には大そうな財宝に満たされた御蔵町があるそうですから、何も子を売ることはないでしょうね。私が出産のためにいた中の対も随分豪奢なものでしたものね。では、なぜ捨てたのですか」
優しい声が冷え冷えとした聞き方を続けている。

「捨てた、と、仰せになりましても、どんな子を、いつ・・・」と言い掛けるとかぶせるような声で答えがあった。
「私を」
「女御様を、どういうことでございましょう」
「あなたは私を捨てたのではなくて?あなたのご一族の栄達のために」
「なんと、なんと仰せでございます。もしあのお方にあなた様をお預け申したことを捨てたと仰せであるならば、恐れながらまったくの思い違いでいらっしゃいます」
「そうでしょうか」
「そうでございますとも。あなた様の行く末をご案じもうしあげ、わが身のそばにおいでになっては、末々のお為にならぬと、生木を裂く思いであのお方にお預け申し上げました」
私は、思わず一気に喋り次ぎ、あたりを見回した。よかった、誰も周りにはいなかった。私が、こんなに激昂するなんて、この私が。

「そう、私のため、と言うのですか。私の為に見も知らぬお方、お父様の正妻とも言うべき女性に。虐められたらどうしよう、酷い仕打ちをされたらどうしょうとは考えなかったのですか」
「そんな、そのようなことは」考えぬことはなかった。考えぬことはなかったが、しかし・・・
「お父様から、あのお方がいかに素晴らしいお方かと常々言い聞かされておりました。ご身分から言っても申し分のない、そんな虐めるなど、酷い仕打ちをするなど、考えられぬことでございました」いえ、考えていた。ずっと。人の心はわからない。まして女の心は狭い物、どんなに貴い身分の方でも、他の女に生ませた子どもなどどうして可愛いわけがあろうか。どんな扱いをされるやら、どうぞあのお方が心優しい方でありますよう、我が子に慈悲をかけ給へ、と神仏の加護を願わぬ日はなかった。
「それは先程申し上げたとおり、これほどまでのお慈しみをお示し下さろうとは、勿体無い事ながら夢思いもかけぬことではございましたが、それにいたしましても、虐める、酷い仕打ちをするなどと・・・」言い募れば言い募るほど私の言葉に真実味が薄れていくように思える。

「あなたは会ったこともない女性にお父様のお言葉だけを信じて私を預けたというのですね、いえ、もしそのお方に悪意はなくとも、その回りに仕える忠義顔の女房などに毒を盛られるなどと考えることがなかったとは、聡明なあなたにしては随分と軽はずみではありませんか」冷え冷えとした声音に揶揄が加わった。
「そのような、そのようなことがあったのでございますか」私は、声を殺して問いつづけてた。身内から噴出す汗と、抑えても止まらぬ震えが声にまで響いていた。
娘は答えないままに、私のほうを見つめつづけたまま・・・今まで見たこともないよそよそしい表情のままだ。
「あなた様は、お父様にとりましてもお大切な后がね、あのお方にしても女房達にとっても大切でないはずはございません。」

「せっかくご運強く、お父様の后がねと生まれた御身を、私の身分ゆえにお妨げすることとなりましてはなんと致しましょう。全てはあなたさまのおため・・・私は体中を切り刻まれる思いで・・・」声に涙がにじんでいた。
「わたしのため、またしても私のため。では伺います。あなたほどの財力をもってすれば、わたしひとり育てるなどいとやすきこと。それほど私が可愛ければなぜ手元で育てようとは思わなかったのです」
「それは、先ほども申しました、私の身分の故でございます。女御様もご存知のはず。たとえ、祖父が大臣じゃ中務卿じゃと申しても、今は受領の娘では、あなたさまに傷がつきましょう。あのまま、私がお育てしては、あなた様の行く末も先々受領の妻か、五位・六位の婿ぎみがせいぜい、お父様のご威光をもってしても、三位の中将あたりがせいいっぱいでございます。」
「それで何がいけなかったのです」
「それは、それは、我が父入道の悲願もあり・・・」
「ほほほ、ほうらね、あなたは一族の栄達の為に私を捨てたのですよ」
「いえ違います、違います・・・」私は、何がどうしてどうなっているのか考えようと努めた。

「入道殿の悲願というのもよそよそに聞いてはおりました。我が意志にかなわぬようなら海竜王の后になれ、とあなたにはおっしゃったとか。それにしても、私が生まれた後に、あなたが我が命をかけて入道殿のおひざにすがれば、それでもというほどに、入道殿は無慈悲な方ですか」
いえ、父は無慈悲ではない、無慈悲ではないけれど、人にはそれぞれに命がけの悲願と言うものがある。心を狂わせる程の悲願となれば親子の恩愛も適わぬ事もあるのだ。現に、父は母と別れ、あれほど可愛がってくれた私さえ手放したではないか。そして、自分は祈願を込めた祈り三昧の孤独な日々を送り、この娘が東宮の皇子を産んだと聞いて、御仏への御礼をこめ、また更なる祈願をせんとてさらに奥山深く入山しようとしている。ああして、あの手紙を共に涙ながらに読んでも、それを言ってもこの娘にはわからないのだろうか。私は絶望するだけなのか、何か説き伏せる説はないのだろうか。第一、この娘は誰から吹き込まれてこのようなことを考え始めたのだろう。あの御方だろうか、いやいや、あの単純な人にこのようなもって回った考え方を吹き込める頭はないはず、ましておそばの女房達には思いつくものもないだろう。女房達などは陰に回って嫌がらせをするくらいが精一杯のはず。それでは本当に女房達に虐めつづけられてこのようなことを・・・

あの人が思い乱れて考えつづけている間、私も考ええ続けていた。
あの出産のみぎり、陰陽師たちの所替えの進言で私はあの人のお預かりの北の御殿に初めて渡った。同じ六条院のうちを里邸になさる中宮様へのご遠慮もあってか、そこには寝殿はなく中の対があった。お父様が日常おいでになる南の御殿には勿論、宰相様の母代にあたられる東の御方の御殿にも寝殿はあるはずで、そんなところにもあの人の身分が現されていた。そして、その中の対には若い女房達が驚くほどの豪奢な調度が置かれ、また、彼女達の噂話はこの邸うちの一角を占める御倉町のことでもちきりであった。そして、それらの全てが初産のために弱りきっている私のカンに触った。それらの富と私とで、あの人は今ここにいるのだという嫌悪感が、どうぬぐっても私の心に大きな染みとなって広がっていった。
あの人がさせている御修法も私のためかあの人自身のためなのか、と思えば心憂く思いであった。
ただ、私の祖母だという大尼君の邪気のない涙だけは救いになったけれど、その話から、私の出生が露わになったことは大きな衝撃だった。おおよそのことはわかっていたつもりではあったけれど、当の本人達から聞かされる現実の話はやはり、私には打撃だった。そして、その酷い現実からあの方の優しさと恩愛の深さを弥が上にも思い知らされたのだった。そして、何よりも嬉しかったのは、あの方が今までとかわりなく優しく付き添い、白装束もかいがいしく若宮を抱いて喜んでくださることだった。

私は本当に大事に育てられてきた。風にも当てぬ、というほど。それが今はよくわかる。今だとて大事にされ続けているけれど、あの暖かさ、ぬくぬくとした居心地のよさではない。だからわかる、自分がいかに大事にされ慈しまれていたかが。でも、そのぬくぬくとした居心地のよさの中に、時折、あっ、と血が沫くような一瞬があったこともまた事実なのだ。それは女房たちが時折見せる眼差しだった。私に直接的に浴びせ掛けるのではない。はっと気づくといつもその眼差しは消えているのだけれど、幸せな気分、心地よいひとときのある魔の一瞬、恨み・嫉み・怒り・悲しみ・・・言いようのない眼差しが私をつき刺していた。それが、あのお方のそばに侍っている昔お父様付きだった女房達だというのに気づくのは時間がからなかった。けれど、だからこそ、誰にも、おとうさまには勿論、あのお方にも言えずにじっと耐え続けた。あの方に申し上げても、きっと「まぁ、そんな、ほほほ」と笑って軽々と打ち消されるだろうと思ったし、そのような醜いことをあのお方の耳に入れるなど、自分が穢れるように思ったからだ。
私は何に対しても素直によく従い、よい娘として育った。お父様もあのお方も本当に掌中の珠と言うように慈しんでくださった。まして、あのお方は私の実の母ではない、それなのに、暖かい日差しがぬくぬくと包むように優しく心から愛してくださった。ただ可愛がるというだけではない。いけないことをしたときは私を抱きしめながらひとつひとつことを分けて諭してくださった。私は、私がいけないことをしているのは、こうしてあのお方の懐の中に包まれることを望んでいるからなのだ、というような気分に浸っていた。
実母でないというのは薄々気がついていた。そのような話はどこからともなく聞こえてくる。幼い頃のことは何も覚えてはいないけれど、あのお方と乳母と、誰か、もう一人・ふたりかかわり深い女性がいたことは何とはなしに記憶の片隅にのこっている。それなのに、私のことを心から愛してくださるのを不思議とも思わず、当然のようにそれに甘えて、また、あの方ご自身のあまりの素直さに多少の侮りさえあったのだった。

それでも、耐え切れないときは来た。入内が決まり、あのお方に代わって冬の御殿を預かる女性が私の後見につくという話が決まった頃だった。ただでさえ、入内は心弾むものの不安は大きい。それなのに、あのお方がついては来てくれず、誰やら別の女性がつくという、どうやら、それが身分の低い実母だというのは私の不安を掻き立てた。そして、あの眼差し・・・いらいらする日々の中で、ある日、ふと、あのお方と私のほかには回りに誰もいないときがあった。そのとき、あのお方が静かに口を切った。
「入内はそなたの心にかなわぬことであったのであろうか?」
「いいえ、そういうわけではありませぬが・・・思えば思うほど心にかかることもありますれば」
その言葉を吸い込むようにあの方は息を飲み、溜息を洩らして話し出した。

「此方は、そなたに詫びねばならぬと思うていたのじゃ。」
「まあ、何を、仰せ出だされるやら」
「あの女房達のこと、此方が知らぬと思うておいでか。また、知っていながら知らぬ振りをしていたと思うておいでか。」
私は、思わぬ展開に途惑っていた。
「あの者達はなぁ、そなたを憎んでいるのではありませぬ。ただ己のはかない身の上に引き比べ羨んでいるのじゃ。そなたも、もうご存知やろうけど、中将も中務も、昔はお父様のお側でご寵愛を受けていた者達じゃ。それが、お父様の須磨下りで此方にお預けになり、お父様がお返り咲きになった後もそのまま此方の手元に置かれたまま・・・」
このお方は何を言い出すのだろう、と思いながら私は黙って聞きつづけた。
「それが、お父様は須磨で別の女性と懇ろになり、お子まで設けた、と聞けば、また、そのお子を自分達の主人としてお大切にお仕えせねばならぬ、となれば心穏やかならぬのはせん無きこと。もし、わが身にお子が恵まれれば我もまたかの人と同じき様にお邸を頂戴し、娘を入内させることも叶うたはず、と思えば、悲しき人の性ながら、そなたを羨みもいたしましょう。」
「それでは、私は」と問い掛けるのをやんわりさえぎるようにあの方は続けた。
「なんの、そなたに罪はありませぬ。罪はといえばお父様におありじゃ。いえいえ、お父様にとて罪はない。勿論そなたの母御にもの。全ては時の流れ、御仏の思し召しじゃ。なれど、それがわかっていたとて、心に燃え立つ焔にどうしようもない魔の時がありまする。その魔の時にそなたに注ぐ眼差しの冷たさ怖さ、どのような思いで受け止めていやるかと案じておりました。なれど、此方がとがめだてしたとてあの者たちの心のうちの焔を消すことができようか。羨ましさが恨みに代わり、ますますそなたを苦しめるようになっては、と、とにもかくにも、そなたの周りから目を離さずおりました。」
私は、ただ呆然と聞いているばかりであった。あの普段おっとりとお父様に愛されているだけの方に、私を可愛がるだけに日々を送っている方にこのような思いがあったのかと。
「それにのう、もともと宮仕えなどする女子とは親兄弟にも縁薄く、あの者たちも、今は寄る辺もない身の上。今このお邸を出されては、頼るというても、遠い遠い縁戚ばかり。なまじにこの晴れやかな六条院の暮らしを知っているばかりに憂きことも人並み以上と思えば邸を出すわけにもいかぬまま、そなたひとりに辛い思いをさせました。許してたも。」と頭をお下げになつた。
そうか、思えば、私はあの者たちと同じ身分の女から生まれたのだ。それなのに、私は主人として上に立ち、あの者たちは侍女として私に仕えている、面白かろうはずはなかった。それがあの眼差しだったのだ。あのお方は恨むということはない、ただ羨ましいだけだ、とおっしゃるけれど、恨まれて当然なのだ。
「けれど・・・」あの方は続けた。
「そなたに危害を加えることがあれば、それは何事にも代えられぬ。此方の力の及ぶ限り、神仏にもおすがりし、此方も日々の事毎に気をつけてはおりました。これだけは信じてたも。」
信じます。あの者達の眼差しを受ける辛さを一緒に味わってくださったことを、そしてそのために一緒に心を痛めてくださったことを信じています。私にも、私を生んだ女性にも罪はない、とおっしゃったお言葉を信じています。それは、私が今日まで育まれて来た日々の中であのお方から感じたあたたかさ・優しさ・言葉の端々にも、ふとした弾みに触れ合う衣のたおやかさからも十分に裏打ちされたことだった。たとえば下ろしたての晴着を着る時、その晴着に染み込んだあの方の香り、その幾日幾夜かを私の晴着にたき込む香りの調香に明け暮れ、どのように私を飾り立てようか腐心しているご様子もその晴着に込められた幸あれかしと願うあの方のお気持ちも私には十分感じられることだったのだ。
私は何も言えなかったけれど、あの方のお胸の中に顏を伏せて、昔叱られた時にしていたようにあの方の匂いを嗅いだ。そんな私をやさしく起こして顔をつくづくと眺めながらあの方は続けた。

「このたびの入内は、お父様の積年の願いであらされて、此方も微力ながらお手伝いできれば、とそなたを后がねとしてお育てすることばかり考えておりました」あのお方は恥ずかしそうに微笑んだ。でもその微笑みは、いつもの明るく花が開くような微笑ではなかった。
「けれど、宰相さまと太政大臣の姫君とのことを伺うと何やら心がとがめました。宰相様はあのようなお方で一筋に姫君を守り通していらしたことが世の評判にも聞こえております。太政大臣の脇腹の妹姫は、入内された姉女御様よりお幸せでときめいていらっしゃるというご様子を聞くにつけ、勿論、入内は一族の名誉、そなたご自身のご将来にもご名誉なこととは思いましたけれど、果たしてそれがそなたの本当のお幸せなのだろうか、と。まして、姫君のご生母の按察使の北の方様もあのご婚儀に大そうご満足なさっていると聞けば、もし、此方がまことの生みの母なれば、どうしたであろうと考え抜きました。」
このお方は何を言おうとしているのだろう、不思議がっている私を見つめてあの方は続けた。
「此方が、もしそなたのまことの母なら、お父様の御意志がどうこうより、そなたご自身のお幸せを一番に考えたのではないか、と」
私は、あっ、と思った。私自身入内のことばかりが頭の中にあって「私の幸せ」などということは頭の端にも上ってきたことはなかった。
「そう、そなた自身のお幸せじゃ。正直に申せば、此方は今まで、そのように考えたことは一度もありませぬ。入内こそそなたに決められたお幸せの道だとそう信じておりました。けれど、まことにそうであつたのか、と宰相様と姫君様を見て思うたのです。」
そうか、私にもわかった。あの方は、ご自身宰相様と太政大臣の姫様のことを心から羨んでいらっしゃるのだ。そして、ご自分が心から羨んでいらっしゃる境遇にこそ私をつけるべきだったと後悔していらっしゃるのだ。あの方にとって、私はお父様がよその女性に産ませた憎い娘ではなく、ご自分が手塩にかけた愛娘なのだ。それにしても・・・

「どうして・・・それほどまでに私のことを・・・」私は途切れ途切れに尋ねた。
「どうしてというても、そなたは、私の可愛い娘ではありませぬか。」少しいつもの明るい笑顔に戻ってあの方はおっしゃつた。
「それに・・・それに此方はなぁ、そなたをお育てするうちに、此方自身も育ちましたぞえ。ご存知であろ?此方は、はじめお父様ご自身で実父式部卿宮から盗み出されるように連れて来られましたのじゃ。もうそれは、はじめから北の方としてのお扱いで、それは忝いことでもありますが、また娘時代の華やかさも知らぬ心地で物足りなく思うておりました。そこにそなたじゃ。最初こそ可愛い生き人形と思うておりましたなれど、そなたの成長につれ、此方も娘とはこうして育つものか、と一刻みづつ自分の登れなかった娘としての階を登るような気がいたしました。」今度は本当にいつものあの方らしい華やかな微笑みが広がった。
「此方がそなたをお育てするかわりになぁ、そなたは此方を育ててくれたのじゃ。忝う思うておりますぞえ。そのご恩報じにこそそなたには幸せになってもらわねば、と思うておりましたなれど、なぁ・・・」あの方は、またひとつ小さな吐息を洩らしながら、私の髪をなでられた。

「でも、その時はまだ、そなたご自身も入内を心待ちにしていらっしゃる、とも思うておりました。言い訳のようですけれどなぁ」また恥ずかしげに微笑んだ。
そうだ、つい先頃までは私だって入内ということが、何やら楽しげなお祭りのように思えていたのだもの。私の為に皆が走り回ってあれこれ額を集めて素晴らしいお衣装やお道具が次々と揃っていって・・・でも不安は突然湧き上がるものなのだ。ことに、あの女房達の眼差しがいっそう激しくなったとき・・・私は急に不機嫌な時が多くなり、自分でもどうすることもないふさぎの虫が心を蝕んでいた。
「それが、先頃からのそなたを見ていて、取り返しの付かないことをしていたような気になりました。此方は、そなたを可愛い、大切な宝物と思っていたはずなのに、そのそなたの幸せを少しも考えてはいなかったのではないか、と。今思えば、此方は怖かったのじゃ。そなたの入内に口を挟んで、なさぬ仲の娘の出世を妬んだ継母の嫌がらせだと思われることが」あの方は静かに涙で頬を濡らしていた。
私もなぜだかわけのわからぬ涙がとめどなく流れてきたのを感じた。なぜだかわからない、なぜだかわからないけれど、あたたかい涙、今まで流したことのないあたたかい涙だった。
「今、こうしてそなたに詫びて済む事とは思うてはおらぬ。だからこそ、宮中へのお付き添いは産みの母御がよい、と決心することができたのじゃ。」
「詫びるなどと仰せになってくださいますな。私は本当に幸せでございます。入内を厭うてもおりません。今もし不服があるとすれば、お母様がご一緒に行ってくださらぬということだけでございます。」
「ほんに、ほんにそう思うてくれますか。」あのお方は私の手を取っておっしゃった。
「はい、ほんにそう思うております。私がもし、ふさいでいるようにみえることがあるようでしたなら、それはやはり不安でございますもの。宮中というところ、主上の御心、東宮様の御覚え、他の女御方とのお付き合い、心にかかることばかり、どうして心穏やかにおられましょう。」私もその手を握り返して答えた。
「ほんに、それだけの心配事があればこそ、そなたのお心を少しでも軽うするためにはやはり、まことの母御がおそばにいることが大切だと心得ました。かの人は私も逢うたことはないながら、お父様のお話では大そう行き届いた人じゃと聞いております。たまさかお父様から見せていただくお歌もお手紙も嗜みの深さが見えまする。が、やはり、なんと言うてもそなたの産みの母御じゃ。何があってもそなたのことを第一に考えてくれると思いました。」そうだろうか、私の心に長年うずもれていた疑問がうごめき出した。
「そうでしょうか、まだ一度も会ったことのない私に」
「逢うたことはなくとも、正月など、心利いた贈り物や、高価なお品が届いておつたであろう。なかなかのお歌も添えられて。なさぬ仲の私でさえこれほどそなたを愛しいと思うのじゃもの、産みの母なるかの人はもっと、もっと愛しいと思うているはずじゃ。此方にはそれさえ妬ましいと思うほどではあるけれど、のぅ。」ホッと、あの方は溜息をついた。
そうだったでしょうか。ではなぜ、その人は私を手放したりしたのでしょう。私は聞きたいことを口に出せぬまま、もう一度あのお方のお胸に顔をうずめた。
「まことも嘘もおかあさまはただひとり、おかあさまだけでございます。」
いつのまにか、おかあさまの豊かな髪の中に私の髪が溶け込んで絡み合っていた。


どのくらいの時間が経っていたのだろう。女御様は外を眺めて整然とおすわりになっていらっしゃる。私も大きく脈打っていた鼓動が静まり、あたりの静寂の中に自分の心を溶け込ませることができた。もう一度心の中で呟く「わが宿世いとたけし」

そのとき、女御様がこちらにお顔を向けた。
「私の幸せは・・・」
「は、何と、今何と・・・」
「私の幸せとは何か、お考えになったことはあって?」
「それは勿論、一天万乗の君と見事添い給い・・・そして后の位におつきになり・・・」
「なるほど、それが私の幸せですか」
何をおっしゃろうというのでだろう。女御様はまたも黙ってしまわれた。
幸せなどといえば、私はこんなところで肩身の狭い思いをして暮らしてなどいはしない。あれだけの持参金をもって、国主の妻にでも納まれば、大きな顔をして豪奢な暮らしをしていられる。それこそ幸せな暮らしといえるだろう。誰が幸せなどという日向水のようなことを女御様のお心に植え付けたのか?それは母として娘の幸せを願わぬものはない。けれどそれでは、父の意志はどうなる。私には、いいえあなた様には一族の栄光がかかっているのです!

あの頃のおかあさまは、人目にはお幸せの絶頂だったはず。それでも、お心うちで宰相様と太政大臣の姫君をお羨ましいと思うお寂しいお気持ちがあったのだ。今はまた、朱雀院の女三宮様のご降嫁を受けて、どれほどお心を痛めていらっしゃることか。東宮様も東宮様です。お父様には私の母代が正室同様にいらっしゃると知りながら、異腹の御妹宮のご面倒を押し付けるようにお父様へのご降嫁を、御父院にご進言あそばした由。私をまこと大事と思われるなら、そのような踏みつけなことはできぬはず。東宮様も所詮お父様との政に私を大事にしているように見せかけていらっしゃるだけだったのだ。
あの祖父の入道と言う人も、ああして自分の野望を娘に押付け、そしてまた、今私に野望の成就をかけている。
お父様といい朱雀院様といい東宮様、祖父の入道とて、男はみんな女の心も涙も知らぬふりでことをお運びになるのだ。これは私が后になったとて同じことなのだろう。私は幸せというものから一番遠いところで生きていかねばならぬのか。この私の実母と言う人が幸せなのは、その祖父の野望を自分のものとして生きて行けるからなのだろう。それを幸せ、というならば、だけれど。
いずれにしても、私は、これからは若宮たちとおかあさまをお守りせねばならぬ。おかあさまはもはやこの世に未練などなくなってしまわれただろう。おかあさまのお望みは心穏やかなる日々だけだ。とはいえ、おかあさまのご出家をお父様がお許しになるはずもない。そのくせ、お父様はおかあさまのお心にお悲しみの種を蒔きつづけていることなど一切知らぬ振りなのだから・・・。

「そろそろ若宮のお迎えに参らねば」ゆったりと身体を傾けた。
「女御様御自らお立ちにならなくとも、誰か使いに参らせましょう」と申し上げると、
「母が子を迎えに行くのです、いえ母のところに娘が参るのです。なんの気遣いがありましょう。」と微笑んだ。いつもの優しげな声音であった。
「おかあさまのことは、これからは私がお守りせねばなりません。あなたも心してください。」

「おかあさまのことは・・・私が・・・あなたも」「おかあさまのことは・・・私が・・・あなたも」頭の中でそのことばが回りかけたけれど、耐えた。耐えた。耐えた。
「それは勿論、先程も申しましたように、これほどまでにしていただけるとは思いもよりませぬことで。今はわが身よりお大切な方と存じご長寿を」被いかぶせるように女御様はおっしゃった。
「おかあさまは、今はもはや長寿など望んではおられませぬ。ただ、ただお心穏やかにと、だからこそ、私がお守り申さねば。参ります」と女御様は立ちかけられた。
「わが宿世いとたけし」もう一度呟く。いつのまにかつま繰っていた数珠がはじけて水晶が飛び散った。一番大きな一粒が立ちかけた女御様のお膝元に止まった。女御様はつとそれをお拾い上げになってつかの間見つめていらっしゃる。頂こうとにじり寄ろうとした刹那、あっと思うまもなく外のほうへお投げになった。
「誰かよい人に拾われるとよいですね、私のように。」

風が吹いていた。冷たい風だ。もう春だというのに・・・梅が散っている、風に舞うこともなく、白い花びらが散っている・・・。




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