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3月31日(土)「歌の無い女達」 葵上と弘徽殿大后

源氏物語中「本敵」と目される女君達の登場です。
一人は源氏の正妻、葵上。もうひとりは源氏の母を死に至らしめるほど苛め抜いたと思われる弘徽殿女御(後の大后)です。

いずれもプロット上の役回りで、此処にこうした人がいなければ話が起こらない、繋がらない、という大事な役回りなのです。けれど、主人公に敵対する役回りと言うのは、損な者で、いなくちゃ困るけれど、邪魔にされるのです。それでも、弘徽殿女御は、桐壺の巻から登場して、源氏の生母桐壺更衣を苛め抜き、父帝亡き後はおおっぴらに源氏を苛め抜こう、という悪婆的大物で、しどころも多く、結構発散もできてよいのですが、源氏の正妻の葵上は、源氏とは冷たい関係のまま、六条御息所には自分の知らないところで従者がした無法を自分の責任のように受け取られ御息所に祟られて死んでしまいます。死の間際にいくらか源氏と心が通い合ったような雰囲気ではありますが、それもはかないもので、源氏はあっという間に二条院にさらって来ていた紫上を妻にしてしまう、という薄情さでしどころとてもあまり無いのです。

今まで、あまり弘徽殿が好き、葵上がいい、と言う人は寡聞にしてあまり聞いたことはありませんでした。ところが、例の「もりの散歩道」でびっくりしたことには、Moriさんは葵上がお好きだと言う、その他、そのサイトにいらっしゃる方達も結構葵上が好きだと言う方達は多いのです。
はぁ〜?と思っていた矢先、瀬戸内寂聴氏の「源氏物語の女性達」というNHKの放送テキストの文庫版で次のような文に行き当たりました。曰く――

葵の上はまだ二十六歳、結婚生活は十年でした。その間愛されない妻としての辛さを見せず、誇り高く自我を守り通した葵上のような女性は、今も多いのではないでしょうか。
なまじ教養があるため、素直に自分の感情を表現できない女。源氏は久しぶりで逢っても、嬉しそうな表情もしなければ、可愛らしく甘えてもくれないあおいの上に、どうしてそんなに冷たいのかと、しきりに責めていますが、原因は自分がつくっていることを認めません。結婚したときすでに永遠の恋人の俤を胸に抱いていた夫の心の秘密を、葵上は女の本能の直感で感知していたのかもしれません。教養が邪魔して可愛い女になれない悲哀は、現代の女性にこそ共感される向きが多いのではないでしょうか。

――とありました。

そういわれれば、なるほどごもっとも、現代女性には、こういうタイプは多いのかもねぇ。と思っていた矢先、ふとしたチャンスに早稲田大学の中野幸一教授の源氏物語の女性論を聴く機会(11月30日・インターミッション)があり、その折にも、中野教授は、その死の前後にかなり心弱くなった葵上が生来の優しさを表出していることに触れ、「紫式部は葵上にかなりの愛情を注いでいた」とおっしゃったのですよ。
そういえば、前出のMoriさんは、「もり語り(旧・もりの散歩道)」の「こてんエッセイ『葵の上考』」というエッセイ集の中で、
――Moriが葵上を好きになったきっかけは田辺源氏です。あれで最後に葵上が「いってらっしゃいまし」と言いますね。で、それが、源氏が今まで聞いた、どの女人の声よりも深く優しかった、と・・・。それに参っちゃったんです。――と言っていらっしゃいました。

んん?そう?私は、まだまだ懐疑的ではあります。なぜか?私は推理小説の愛読者でありますからねぇ。推理小説上においては、誰かが殺されるとき(自然死でも殺人でも)、それまでに無い優しさや人間臭さを出して、死後のイメージを膨らましたり、その死の与える衝撃を大きくしたりするのは常套手段!と言うわけなのです。
(現に子供のころ―小学生時代に児童用の源氏物語―)読んだ時でも、葵上が優しくなったとき、あ、この人死ぬわ!と思いましたもん。)

私は、今までにも、シェークスピアなどを引っ張り出したり、ろくすっぽ知りもしない西洋文学との比較を源氏物語に対してして参りましたが、葵上の死に対してはそういう推理小説に見られるような死ぬ間際の人格の豹変を上げたいのです。それは某院に連れ込まれた夕顔が、それまでのたおやかさだけの女からしなやかな才気を見せる大胆な(女から男に歌を贈る、という程度ではない大胆さ)女への豹変にあい通じるものだと思うのです。そして、その豹変こそが、彼女達の死の衝撃を甘美な余韻としたり、おどろおどろしい執念の謀殺にしたりしているのではないか、と考えています。そして、あの時代にそういう読者の心を惹きつけ惑乱させるテクニックを駆使した紫式部を凄い!と思うのです。
そして、私が、なぜ、ここで女君の魅力ではなく紫式部のテクニックなのか、といえば、冒頭に戻りますが、葵上にしても、弘徽殿大后にしても、プロット上の役回りを果たすことが第一と考えるからでもあります。なぜ、プロット上の役回りということに拘るのか、と言えば、それはやはり「歌が無い」ということなのです。


円地文子著「源氏物語私見」の中に「歌の無い女」という項目があって、以下――

「もののあはれ」を解さぬ人は「よき人」とは言われぬ。それは、世間で言う道徳的規範とは違うのだと、本居宣長は「玉の小櫛」の中で言っている。藤壺の宮や光源氏は、密通と言う不道徳な行為を犯していても、その行為に至る経緯においても、犯してからの煩悶懊悩においても、人の心の底をゆする「あはれ」を失っていない点で、「よき人」の条件を傷つけていない。
その反対に、源氏を弾劾する立場の弘徽殿の大后は、徹頭徹尾我意を張る行動に終始し、他の感情を大切にする、即ち「もののあはれ」を無視した行動者である点で、゛「よき人」の仲間に入ることが出来ず、後世の無情な分類者の一部は、彼女を悪后のなで片付けているものさえある。
という記述から始まって
――しかし、客観的に見ると、弘徽殿の女御(後の大后)は、別にそれほど指弾される人物でもなさそうである――という記述があり桐壺更衣を苛め抜いたことにしろ、藤壺や源氏に敵対したことも、桐壺帝を悔しがらせる所業があったことも挙げながら、
――第一番に入内した最古参の女御であり、右大臣の娘という以上に、気性の強さで帝を抑えているので、この強妻に文句をつけられると、帝はいつも後退せずにはいられないのである。逆に言えば、こういう強力な個性の女性があって、更衣を熱愛する感情が高揚して行ったと見ることもできる。
しかし、無弘徽殿にしても、鬼でも蛇でもない。その証拠には、母を失った後の世にも美しい幼い源氏を、帝がその許へ連れて行って「母もいないことゆえ可愛がってくれ」と頼むと、その愛らしさに憎みあえず、微笑まずにはいられないのである。――と、続けています。

けれど、弘徽殿大后は、ここでは豹変し切れませんでした。藤壺の出現によって、再び自分のトップレディとしての地位が揺らごうとするとき、又源氏が亡き母の俤を求めて藤壺を慕うとき、弘徽殿大后は元通りの頑なな悪役に戻っていき、桐壺帝の死後自分の息子の朱雀帝の治世となると果断なく敵対勢力の源氏・藤壺を潰しにかかります。息子の朱雀帝が天変地異に怯えて源氏の流謫を解こうとすると、「雨など降り、空乱れたる夜は、思ひなしなる事はさぞ侍る。軽々しきやうに、思しおどろくまじき事」と言い放って、自分がわずらひ付いても頑として源氏を許すことを諾とはしません。なぜなら、そうすることが弘徽殿大后の役回りだからです。そこには「歌」が存在する余地が無いのです。

葵上にもそういうことが言えるのではないかと思います。葵上はああいう性格を持って、あの場に登場し、そうそうに退場せざるを得ないという役回りでした。なまじい、葵上に情が移るような書き方をしては、これから始まる源氏と紫上との本格的な夫婦愛に差し障るからです。それゆえにこそ十年も連れ添った夫婦のはずなのに、心通わす相聞歌もなく、ひととき心が触れあったと思えば、それが永遠の別れになる、という気の毒な扱いになるのだと思うのです。
藤壺が桐壺更衣に似ている、ということが、あれほど深い愛情を更衣に注いだ桐壺帝が藤壺に惹かれるための免罪符になつたように、源氏が父の后を犯す免罪符になったように、葵上との仲がしっくり行かなかったことが、源氏が藤壺を思い切れない免罪符となり、さらには紫上に執着していく免罪符になるのです。

もうひとつ考える事があります。おそらく、「源氏物語」の中の歌は、紫式部がそれぞれの人格にあわせて、その人格になつたつもりで読んだのではないか、というのは誰しも考えることではないか、と思います。1999年5月20日「空蝉と明石御方」でも言ったとおり、主人公達は、みなみな作者の分身である――ということは、それぞれの人物に対してかなりな思い入れがあったはずです。そして、その思い入れの中でその人物になりきって、その場の歌を詠んでいったとしたならば、果たして、源氏との心通わぬ妻として葵上を死なせることができたでしょうか。弘徽殿大后を悪役のままで、最後まで突っ走ることができたでしょうか。作者は時に非情にならねばなりません。作品の構成上必要な人物は必要なときに生き、死なねばならぬ、とするとき、ああいう状態で葵上を死なせることを予定していたならば、その人格になりきって歌を詠むのは、さすがにこの段階での紫式部にとっても辛かったのではないか、源氏物語の歌がなかなかに秀作ぞろいであることからも、私はそう考えます。
また、だからこそ、今までと打って変わった優しげな言葉を言い置いて「いと清げにうちさうぞきて出で給ふ」夫を、「常よりは目とどめて見出して臥し給へり」という、歌一つ交わす状況を許されずに逝つた葵上の無念さを一入哀れ、と思う心が読者の中に芽生えるのではないか。明日になれば変わったかも知れぬ二人の仲が、今日はまだ昨日をひきづったまま、突然の断層!という歌一つ無いがゆえの万感の思い、もし、中野教授がおっしゃる「紫式部は葵上にかなりの愛情を注いでいた」という解釈を私なりに受け入れるとしたら、作者はそこまで計算して、葵上に歌を与えなかったということではないか、と私は考えます。とすると田辺源氏が補った――「いってらっしゃいまし」といった。それは源氏が耳にした女の声のうちで、もっとも深い、やさしい声だった。――というのは、かなり、作者の意志に背いたものではないか、とも思うのです。ただし、あれは田辺源氏、田辺聖子氏のオリジナルと言う面が強いものですから、田辺氏としては、やはり、あのまま葵上を死なせる事はできなかったのだ、それはそれ、源氏ファン・葵上ファンの心の叫びとしてとして読めばいいのかもしれません。

(葵上の歌のない死は、後に、柏木が名歌の数々を遺して死ぬのとは対照的でもありますが、あれは、あれで一つの悲恋物語の主役としての死ですから、別だと考えます。)

その葵上の歌のない状況に比べれば、弘徽殿大后はもっと単純明快に、本敵として、あまり、肩入れしてはまずい、という感覚があったのでしょう。それにしても、弘徽殿大后の言動はさきの円地説にもあるとおり、理路整然としていて、弘徽殿・右大臣側からみれば正論であり、体制側にたてば、誰しも行う防御体制です。現に源氏だとて、後のほうになると、政敵となつた頭中将に、昔の恩義も忘れて、けっこうな仕打ちをしています。

右大臣サイドに立てば、弘徽殿大后の「細腕(?)繁盛記」のようなもので、当てにならない軽薄で俗物の父親や、人がいいばかりでいっこうに覇気がないマザコン息子を引き連れて、政敵の男に浮かれている浮気者の妹に悩まされながら一族郎党率いている典型的な「後家のがんばり」といったところです。
円地・私見の中でも、
――藤壺の宮の剃髪する前の述懐に、「戚夫人の見たほどの憂き目にはあわないとしても」という言葉があって、ここでははっきり、司馬遷の「史記」の中で漢の高祖の死後その正妃呂后が、夫の寵妃戚氏を極端に虐待した記述を譬えに引いている。恐らく、作者の心にこの時、弘徽殿の大后と藤壺を呂后と戚夫人に準える底意があったであろう。――
と言っていますが、紫式部は自分の好悪にかかわらず、弘徽殿の大后の役割を本敵として痛烈に描ききっています。
都に呼び返され復活した源氏に息子の朱雀帝は諸手を上げて大歓迎するけれど、大后は病みついて重態というのに、前非を悔いるなどという殊勝なおばちゃんではなく、「『つひにこの人をえ消たずなりなむ事』と、心やみ思しけれど」というところなど、あっぱれな根性を見せています。

私は、この猛烈おばさんがけっこう好きです(呂后もけっこう好きなのですが)。紫式部も案外この悪婆を好きだったのではないか、と考えています。というのも、先にあげた「雨など降り、空乱れたる夜は、思ひなしなる事はさぞ侍る。軽々しきやうに、思しおどろくまじき事」と言い放つあたりずいぶんと颯爽としている、と思うからです。しかも、自分自身病に倒れても直、源氏を許そうとしないのは「お釈迦様が詫び縄文を書いてきても嫌だ、嫌だ!」という歌舞伎の悪役に通づる明快さがあるから、というのは私の感じ方ですが、この理路整然としたところは紫式部自身の、当時の天変地異に対する見解とも言われていますし、こういうところで、そっと、自分の理論を忍ばせて、正面切っていっては異端視される理屈をうまく書き残しているものだ、と感心もしてしまいます。そして、こういう密かな自分の意見を託す女性を紫式部自身が嫌っていたようには、私には思え無いのです。

円地文子氏も、このあたりのことを、「まことに正論で女丈夫だとも言える」と言い、
――女が意志をはっきりと示すことが悪とされた世界では、たしかに彼女は悪后であったろう。そうして「源氏物語」の中の女性で和歌を詠んでいないのは、この大后と葵上だけではないだろうか。――と結んでいます。

葵上と弘徽殿大后、ふたりは状況こそ違え、「源氏物語」の和歌中の795分の一すらも与えられる事はありませんでした。しかし、それにも関わらず、後々の読者に相応のファンを集め、それぞれの境遇にスポットを当てられて、作者が書かなかった物語を組み立てられていることを考えれば、やはり幸せな女君だといえるのではないでしょうか。
しかし、このふたりは、それすらも拒んで、葵上は端然と座って動かず、弘徽殿大后は「者の役にも立たぬことを長々しくも言ひたつることかな、あしきわざなり」とて御顔背け給ふ、何てことかもしれません。





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