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10月19日(木) 「紫上と明石姫」実は2001年7月「手遊び」の後の追記

実は、2001年の2月に「明石姫」を小説形式で取り上げました。やはり、小説は手に余る愚挙で、書きたいことの半分も書けなかったのです。それで、どうしても、その書けなかった部分を書きたいと思い、どこに書こうかとフラフラ考えていたのですが、やはり、これは、「紫上の最期」の部分に追記する方が相応しかろうと、かく相成った次第です(^_^;)

「紫上と明石姫」

5月に「雲居雁」を書いた時、源氏物語のなかでは、唯一世話場というのが夕霧と雲居雁との夫婦喧嘩の場というけれど、私には、もうひとつの世話場があると思う、と書いたのです。実は、それが、ここで書きたいところなのですが、これを書くと、源氏物語が、突然ホームドラマになってしまうようで、自分の中でも少し抵抗がある、と言うことも事実なのです。

つまり、紫上と明石姫との絆です。
明石姫は明石御方処世の継娘です。それを、紫上は3歳の時から手元に引き取って育てました。 それは、受領階級のしかも明石という鄙育ちの明石御方が母ということでは后がねとしての姫に傷がつく、ということで、庶腹とはいえ親王を父に持つ紫上こそが后がねの母としてふさわしいということからです。子ども好きの紫上も喜んで明石姫を迎え育てます。その間の私が考える「紫上と明石姫のありよう」は「明石姫」の中で書くことが出来ました。しかし、そう考えた根拠をうまく書き入れることが出来なかったのです。

まず、明石姫が、紫上になついていたのはわかります。しかし、どうして私に「これからは、私がお母様をお守りしなければ」と明石姫に言わせたのか。それは、若菜下巻で、紫上が発病したとき、女三宮の許にいる源氏に知らせたのが明石姫だという事です。
紫上は、発病して、まわりの女房が「御消息聞こえさせむ」と立ち騒ぐのを、「いと便ないこと」と言って押しとどめじっと独り我慢を続けます。そこへ、里居中の明石姫ー今は明石女御です。この後は明石女御ーからお招きがあり、応じられないことを伝えるには事実を告げねばなりません。「女御の招きを断るのはよほどの重態」という玉上琢弥氏の注釈にもありますが、それは身分上のことも言えるし、明石姫と紫上母子の情ということからもいえるのではないでしょうか。
紫上発病にビックリした明石女御は、女三宮の許にいる源氏に知らせます。

このあたりが、私としては、凄い世話場だと思うのですよ。
結婚した娘が里帰りして、はなれに滞在してる。親父は適当に遊びまくっているから、娘は母親を気遣って、親父が外泊しそうな夜は誘い出したりしている。今夜は外泊だと察するから、娘は母親に誘いをかける。すると母親は急病で苦しんでいる。娘は親父の居場所へ凄い剣幕で知らせる。「お父さん何してんの!!お母さんがこんなに苦しんでいるのに!!!」親父はオットリガタナで帰宅して、古女房の青ざめた様子に動転している。それを見つめる娘の冷ややかな眼が見えるようです。

しかも、転地療養のような二条院まで、明石女御は付いていきます。このときを汐に宮中に帰ったとて、また、身重であることを縦に六条院に居残ったとしても誰にも文句は言われますまい。現に女御の身を案ずる紫上は「ただにもおはしまさで、物怪などいと恐ろししきを、早く参り給ひね」と、苦しい息の下からも言うのです。
もう、ここには、養母だとか、もらい子だとかの観念はありません。ただただ互いを思い合う母と娘がいるだけです。源氏物語は男女の中が中心になった物語です。親子の情愛は希薄と言っていいでしょう。それは親子を持ち出すと、世界がやけに縮小され、身近になりすぎる、ともいえるからだと思いますが。

源氏物語の中で親子の情愛の場といえば、一に、賢木巻で、藤壺が出家を志して、それとなく東宮に「御覧ぜで久しからむほどに、かたちのひとざまにて、うたてげに変わりて侍らば、いかがおぼさるべき」と問うて、東宮が「式部がやうにや」と老女官のようになってしまうのか、と子どもらしく見当違いの問いを返すところです。この場で、「御歯の少し朽ちて、口のうち黒みて、ゑみ給へるかをり美しきは、女にて見奉らまほしう清らなり」という東宮の愛らしい姿の表現は出色です。

二には、明石姫と明石御方との別れの場です。ここは、後半で野心の固まりのようになる明石御方も、楚々とした若妻が身分違いの恋に生まれた幼い我が子を手放した方がよいか、悪いか、と悩み、それでも、母親に諭されて手放す覚悟を決め、
「姫君は何心もなく、御車に乗らむことをいそぎ給ふ。寄せたるところに、母君みずからいだきて出で給へり。かたことの、声はいとうつくしうて、袖をとらへて『乗り給へ』と引くも、いみじうおぼえて」というところでしょうか。

肝心の源氏と夕霧、女三宮と薫などはまるで、そういう場面に行き当たりません。まぁ、男の子はしょうがないわね、というのは、現代の親子にも通じる息子の愛情表現の拙さを、紫式部は描いたのでしょうか。

それにしても、紫上と明石姫ー女御との母子愛物語はそれとなく細やかに描かれています。それも、源氏と紫上の齟齬が明らかになればなるほどに。

御法巻では、紫上の枕頭に、もはや中宮にも上り詰めた明石姫(この後は明石中宮)が、二条院に里下がりして、あまつさえ、紫上に寝殿をゆずり、東の対に滞在するのです。そして、「久しき御対面のとだえを、めづらしく思して、御物語こまやかに聞こえ給ふ。」その様子は、「院入り給ひて『今宵は巣離れたる心地して、むとくなりや。まかりてやすみ侍らむ』とて渡り給ひぬ」ほどです。
この場面も、久々に病床を訪れた娘と、細やかな会話が弾んでいる妻の様子を見て、久しぶりに明るい雰囲気が戻って安堵しながら看病疲れした我が身を背筋でも伸ばしながら「さぁ、おとうさんは一服してくるか」と遠慮勝ちに出て行く様子です。

そして秋。いよいよ、紫上の臨終に際しては、親子三人、つかの間の小康状態に合わせて三人の唱和を交わし、「今はわたらせ給ひね」という言葉にも「常よりもいとたのもしげなく見給へば、いかにおぼさるるにか、とて、宮は御手をとらへ奉りて泣く泣く見奉り給ふに、まことに消え行く露の心地して限りに見給へば」「夜一夜さまざまのことをし尽くさせ給へど、かひもなく、明けはつるほどに消え果て給ひぬ。」ついに紫上はこの世を去りました。「宮も帰りたまはで、かくて見奉り給へるを、限りなく思す」のです。

男女の愛と親子の愛とは別のものです。紫上が最後の最後に男の愛よりも、娘の愛に応えた、とは言いません。それは比べることの出来ない別のものです。しかし、源氏に失望し、源氏への愛に、一つの諦観を見たことは確実でしょうし、そういう紫上にとって、明石姫との細やかな語らいは大きな救いにはなったことでしょう。

そして、明石姫こそは、かつて自分に注いでくれた母・紫上の愛に応えて、今度は自分が母を守ろうと、心を砕いた娘の姿です。そこには、真実の母子の姿がありました。勿論、二人ともがお互いを実の娘・実の母と考えているわけではないのです。だからこそ、明石姫入内に際して、紫上は「この折に添へ奉り給へ」と明石御方に明石姫の後見役を託し、また、明石姫も、今この臨終で「かくて見奉り給へるを、限りなく思す」のです。養母と養女という事実を越えて、なお互いを思いやる真実の母と娘になったのです。

けれど、それも一期の夢、源氏との愛もまた一期の夢でした。
女三宮は、鈴虫巻で、源氏から「蓮葉を同じ台とちぎりおきて」と詠み掛けられて、「へだてなく蓮の宿を契りても君が心やすまじとすらむ」と一蹴しています。もはや、この世にある時から、違う道を歩いているのだ、と悟りきったというよりは割りきった答えです。
紫上は、最期の三人の唱和の折に「おくと見るほどぞはかなきともすれば風邪に乱るる萩のふは露」と詠んで、源氏は「ややもせば消えを争ふ露の世に後れ先立つほどへずもがな」と答えました。その答えを紫上はどうきいていたのでしょうか。

わたしの考えていた紫上の心は前回(2000年10月18日)に書きました。一年たった今もその考えに変わりはありません。




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