前ページへ/表紙へ

5月29日(水)「雲居雁」

さてさて、本編の女君最終ランナーといえば雲居雁と落葉宮、ということで・・・まずは、雲居雁。

主人公光源氏の永遠のライバルにして、やはり、究極の親友頭中将の次女。
源氏物語の中の「ロミオとジュリエット」ハッピーエンド編!
王族出身の母が按察使大納言家に再縁したため父方に引き取られたという、家庭的には寂しかった分、祖母の溺愛を受けて、何不自由なく育ち、幼い恋を育てて幼馴染の夕霧と結ばれると言う、超々理想的な恋から結婚へ!という女性としての最高のサクセスロードを歩んだ女君!なのですが、この人ほど私にショックを与えた女君は実はいません。
なぜなら、紫上は別として、幼いころから夕霧との筒井筒を見せ付けられて、気分はすっかり雲居雁!となっているのに、(勿論私自身が!)、あの結婚してからのテイタラク!と言っていいのかしら?幸福が日常になると、女はかくも堕落する!という見本!のような女性になってしまった(何々?それはお前のことじゃ!?ほっといて頂戴!!)のですよ(;_;)

大体、夕顔や、近江の君の出自を考えても、頭中将は、あまり身分の高い女を好まなかった!と言えるのではないかと思います。そういうところ、あくまでも内親王に拘った柏木とは正反対です。正室の右大臣の四の君(柏木・弘徽殿女御の母)は、政略結婚の匂いが強くて、おまけに、弘徽殿大后譲りの気の強さで、とても頭中将の愛を独占しているとは思えないし、だからこそあちこちに愛を求めてか、恋を求めてか、「腹々に御子ども十余人」という有様です。まあ、妻妾の数も源氏には引けを取らぬよう頑張ったのかもしれないけれど、そんな頭中将ですから、王族出身の雲居雁との母ともうまく行くはずがなかったのかもしれません。

しかし、昔も今も、離婚はやはり、子どもには大きなギャップになります。不仲の両親の真中で息を殺しているような生活よりはずっとマシではありますが(^_^; 
たとえ、正室でなくとも、「わかんどほり腹にて、あてなる筋はおとるまじけれど」と、言われるのですから、そのままスムースに行けば、后がねNO.2(姉が冷泉帝に入内したら、次は東宮にということで)として大事大事に育てられても不思議ではなかったはずなのです。ところが、母が按察使大納言家に再縁して、そこではうまくいったらしく「さしむかへる子どもの数多くなりて」ということで、頭中将生来の負けず嫌いが頭をもたげて「それにまぜてのちの親にゆづらむ、いとあいなし、とて大宮にぞあづけ聞こえ給へりける。」と言う具合ですから、はじめから「女御には、こよなく思ひおとし聞こえ給へりける。」というわけで、決して幸福な星の許に生まれたわけではありませんでした。また、結婚後も、夕霧に一途に愛され大事にされていることを聞くと、紫上の継母の式部卿の大北の方ほどではなくとも、「女御の御有様などよりも、華やかにめでたくあらまほしければ、北の方、侍ふ人々などは、心よからず思ひ言ふもあれど」などと、父親はともかく継しい仲の周囲から雑音を入れられたり、とそれなりの苦労はあるはずなのです。
ところが、ところが、〜ん〜なことは、屁とも思わないのが、この人の真骨頂でありまして、それを「もり語り」のMoriさんは「夕霧限定」と断りながら、「愛されている者は強い!」とおっしゃいます。そうだよな〜、と私も実感します。「惚れた弱み」というのは夕霧のためにあるような言葉で、何があっても雲居雁!なのです。まぁ、後編では落葉宮にも一途に突進しますが「惚れた弱み」というのは雲居雁にだけ当てはまるように思います。

そのへんのところ、前出のMoriさんは、
もともと、この二人は姉弟同然に育っています。これは大きいですよね。相手の精神世界にどっかと根を下ろしていて、殆ど堺がなくなっていると思うんですよ。お互いの。わたしはアナタであなたはワタシ♪みたいな。―中略―結婚してからだってラブラブです。―中略―子供もばんばん産みまくって、夕霧とはもう本当に「家族」です。もともと姉弟的な感覚もあったんだから、二重の意味の家族ですよね。源氏が女人たちとの間に保ちつづけた緊張感、なんてモンは、かけらもありません。
――とお書きになっていて、このふたりの不可思議な一体感をうまく表現されています。

雲居雁は源氏自身に絡む女君でないためか、あまり、取り上げられてはいませんが、私はけっこう重要だと思っています。それは、確実に女性の意識が変わっていることを描いているからです。勿論、同世代の女君でも落葉宮は一つ前の時代の尻尾をひきづって、紫上や花散里・明石御方等と同じようなスタンスで生きています。しかし、女三宮や雲居雁は、もうひとつ先の時代へ足をかけて私達には私達の生き方(行き方)があるのよ!と言っているように思えるのです。当然、「雨夜の品定め」にも描かれたように、同時代にも色々な女性の個性があり、源氏周辺の女君たちにしても、従順な女・強情女・貞女・浮気女・薄情女・・・といろいろな個性の女性達がいるのですが、雲居雁とは、そういう個性とはひと味違った時代を超えていく個性とでもいえばいいのでしょうか、感じています。結局雲居雁も、元のさやに納まって落葉宮と夫を分け合う、愛を分け合う生活に戻っていくのですが、その愛を分け合う生活は、それまでの女君たちのような悲痛さは少ないように思えます。

それは勿論、雲居雁の生来の性格もあるでしょう。非常に素直でおおらかです。というよりは「生まれたまんま」というのではないでしょうか。良くも悪くも「タメの効かない自然のままの枝ぶりの樹」なのです。自然のままのすっくり伸びた幹に、枝ぶりの見事なところと、ここは払った方がいいという雑枝とが交差して雲居雁という気質の女性を形成しているのです。また、それを愛し、ためる事など思いもよらぬ夕霧と言う、こちらはためたり整えたりして、バランスよく形作られた男性と一対の妙をなしているのです。
そうした二人の性格が、夫婦関係にも滲み出て、妻はわがまま言い放題!亭主を尻にしき放題!亭主はそれを大歓迎!というわけです。
横笛の巻では、落葉宮邸から夜遅く帰宅して、落葉宮と柏木との淡い縁に不幸の影を感じて思いに耽る夕霧が、自ら雲居雁との夫婦仲のよさに感慨深く「我が御中の、うち気色ばみたる思ひやりもなくて、むつびそめたる年月の程をかぞふるに、あはれにいとかうおしたちて、おごりならひ給へるも、ことわりに覚え給ひけり。」となります。そして、そうした感慨に耽る夫を尻目に、赤子が泣き出せば、「(雲居雁の)上も大殿油近く取り寄せさせ給ふて、耳はさみして、そそくり繕ひて、抱きてゐ給へり。」というありさまです。この場面は、源氏物語「唯一の世話場」とも言われていますが(実は私はもうひとつ世話場があると思ってますが、それは後日)、やはり、同性として、雲居雁に、もうちょつとなんとかしたら〜、と言いたくなるような場面ではあります。

雲居雁には「愛される者の強み」と言うほかにも、確かに実家が強いこともあります。しかし、その実家には、雲居雁を快く思わぬ継母がいます。紫上に対する式部卿の大北の方の憎悪ほどではなくとも、先ほども言うとおり、「北の方、侍ふ人々などは、心よからず思ひ言ふもあれど」と言うわけですから、とても親切とは思えません。紫上なら、二の足を踏むところでも、雲居雁は斟酌しません。落葉宮を一条の邸に連れ戻して妻のように据えた夫に散々毒づいた挙句、何人かの子供を連れて実家に帰ってしまいます。

また、そこからが、雲居雁の面目躍如です。実家には姉女御が里下がりで帰っています。もしかしたら「あなたの不幸は私の幸せ!」と思っているかもしれません。姉女御には女御としてのプライドがありますから、そうは思わないとしても、女御に使える女房達はそれみたことか、と言うかもしれない。ところが・・・
「女御の里におはする程などに対面し給ふて、少しもの思ひはるけどころに思すされて、例のやうにも急ぎ渡り給はず」と、一向に悪びれる様子もなく、「丁度いいわ、お姉さま、ねぇねぇ聞いて、聞いて〜」と言う雰囲気です。こう素直になつかれれば、姉女御だとて「ふんふん、どうしたの?そりゃあんまりねぇ〜」と言う雰囲気になっていたとしても不自然ではありません。現に何度使いをやってもナシのつぶての雲居雁に、業を煮やした夕霧が迎えに行くと、連れてきた幼子達まで乳母に押付けて、姉女御のところに入り浸っているのです。今なら差し詰め、実家の母親に子供を押付けて遊びまわっている、と言う図です。まぁ、父親の頭中将(この時は既に太政大臣)も、現代の父親のように「女のかくひききりなるも、かへりては軽くおぼゆるわざなり」などと宣もうて、早く帰れ、などとは口が腐っても言いません。迎えに来た父ちゃん夕霧は乳母に押付けられていた子供たちを、自分の前に寝かせてグチグチと愚痴りながら一人寝する始末です。

そして、この夕霧の浮気騒ぎに従来からの夕霧の愛人藤典侍が慰めの手紙を雲居雁に送ってきた時も、「なまけやしとは見給へど」(ま!あてつけがましい!というところでしょうか)、そこは生来の素直さから、「人の世の憂きを哀れと見しかども身に代へむとは思はざりしを」という返歌をしています。この辺のところを、瀬戸内寂聴氏は、「十人十色・源氏はおもしろい」の中で、「蜻蛉日記」の右大将道綱母と兼家の正室時姫との確執に比較してこう述べています。――

源氏物語より前に生まれた蜻蛉日記には、作者の藤原道綱の母が、正妻の時姫と、夫の藤原兼家を中にして、いつも張り合ったのに、浮気な兼家に打ち込んだ女が出来、時姫も夜離れされていると知って、同情した手紙を出すところがある。ところが、時姫は日頃はおとなしく、恋敵の道綱の母に対して、意地悪のひとつも見せないのに、この時ばかりはぴしゃりと、いらぬお世話だ、という意味の返事をかえし、気位の高い道綱の母を打ちのめす。
紫式部はもちろん蜻蛉日記を読んでいただろう。同じ関係の女同士のやりとりは書きながら、雲居雁を素直でおおらかな女にして、心のままの返事をさせたところが心憎い。この一事でも、雲居雁の鷹揚さが現れている。

――とあります。蜻蛉日記の第三者の競争者が現れて、先妻たちが、手紙をやり取りする、というシチュエーションは、女三宮の降嫁の折り、紫上に花散里や明石御方から慰めの手紙が届いた時にも使っています。こちらは、時姫ほどではなくとも、
「こと御かたがたよりも、『いかに思すらむ。もとより思ひ離れたる人々は、なかなか心やすきを』など、おもむけつつ、とぶらひ聞こえ給ふもあるを、『かく推しはかる人こそなかなか苦しけれ。」と紫上に言わせていますし、それはそうでしょう。まぁ、聞いたほうとしても、立場上シランフリは出来ないからこそ慰めの手紙を送るのだとは思いますが、同情されるというのは、やはり第一の地位を保って来た人には辛いものです。

そういえば、夕霧の浮気事件では、花散里が「みな世の常なれど、三条の姫君の思さむ事こそいとほしけれ。のどやかにならひ給ふて」と、ここでも、えらく雲居雁に同情しています。花散里の人柄もいいということもありますが、雲居雁の余りにもという程の素直さが、同情心を起こさせるということもありましょう。それにしても「みな世の常なれど」とは、花散里が男女の仲に達観している様子もよくわかります。

しかし、生まれたまんまの奥さん・おかあさん、というのはそれなりに困り者で、おおらかで誰にでも悪意を持たない、持たせないところはよいのですが、教育的にはどうも、ピりっとしたところが欠けていたようで、四男三女の子福者ですが、かたや藤典侍の二男三女の方が出来がよいらしく、「内侍腹の君達しもなむ、容貌をかしう、心ばせかどありて、皆すぐれたりける。」と書かれています。そこを見込んでか、花散里は内侍腹の三の君・二郎君を手元に引き取り養育します。こういう場合、「花散里の育てる方が格が上になり、将来は北の方が育てる扱いとほぼ同格になる」と玉上琢弥先生の脚注にございました。これは六条院の第二夫人にして、夕霧の母代という身分がものをいうのでしょう。
更に匂兵部卿の巻では、子供の出来なかった落葉宮が「内侍のすけ腹の六の君とかいとすぐれてをかしげに、心ばへなどもたらひて生ひいで給ふ」ということで、六の君を養女にして(これは雲居雁の子供をもらうわけには行きませんからね)、匂宮を婿に取るのですから、これは雲居雁としてはどうだったのでしょう。でも、彼女の性格から考えれは、そんなことには拘らなかったかもしれません。

そうそう、「かもかのおっちゃん」の言に寄れば、「そら二号さんの子の方が出来がええに決まってますがナ。そら仕込む時の気合が違います!」ということでしたけれど、はてさて…(^_^;)

さてさて、最後になりますが、この雲居雁が一番魅力的に描かれた場面!それは、夕霧との夫婦喧嘩の場面です!
ふつう、喧嘩している女は醜いもの、特に夫婦喧嘩などしていたら目も当てられない!というのに、この場面の雲居雁は頗る魅力的ですらあります。

三条の本邸に帰りづらい夕霧は、六条院の母代の花散里の御殿に避難して、先ほどの「みな世の常なれど、三条の姫君の思さむ事こそいとほしけれ」などと言われて「らうたげにも宣はせなす姫君かな。いと鬼しう侍るさがなものを」などと憎まれ口を叩いて、日が高くなってから三条邸に帰宅するのですが、ここで、雲居雁は不貞寝しているわけですよ。此処の描写が、素晴らしいのです。
雲居雁は「いづことておはしつるぞ。まろは早くう死ぬーにき。常に鬼と宣へば、同じくはなり果てなむとて」とわめいているんだけれど、夕霧から「御心こそ鬼よりけにもおはすれ、様は憎げもなければ、えうとみはつまじ」なんて軽くいなされて、更に逆上するわけですよ。で、逆上して起き上がった様子が「いみじう愛敬づきて」というんだけれど、要するに夕霧にとっては新鮮だったのでしょうね。あれこれ言ってからかえば、「何事言ふぞ。おいらかに死に給ひね。まろも死なむ。見れば憎し、聞けば愛敬なし、見捨てて死なむはうしろめたし」などと、ポンポン帰ってくるわけです。ひょっとしてフィフテイフィフテイの夫婦喧嘩なんてものは初めてだったのではないでしょうか?いつも、一方的に雲居雁がああしてこうして、と言い、うんうんお前のいいように、なんて平和に過ぎていたものが、突然の事件によって、平和じゃない楽しみ方が凄く新鮮に感じられたのかもしれません。ここは、Moriさんの「雲居雁考」の解説がいいんですよ。

しっかし、彼女はこの時、ほんっと〜〜〜〜に!!ロコツに嫉妬しますよね〜〜。手紙は奪い取るは、「鬼になってやるっっ」とふくれるは、子供ひきつれて実家に帰るは、いやはや、パワフル、パワフル・・・。
これには「愛されている者の強み」を感じます。
―中略―
これはねぇ、女?奥さん?としてこれほど幸せなことはないですよね、多分。
そして、夕霧もよくそれを承知していると思います。だから、いっくら雲居雁がキイキイ言っても、「プッ。かわいーー」てな感じで全然本気にしない。
そうなんですよね、彼女の嫉妬はあまりにも素直でかわいいんですよ。・・・本人は本気みたいなんですけどね。いちお。

というわけです。「プッ。かわいいーー」って言う表現は、全く夕霧の気持ちそのままなのではないでしょうか。こういう奥さんは、ホントは困るのかもしれません。しかし、源氏物語の中で、たったひとりの本当に幸せな女君として、読んでいる方にも変な安心感を持たせる雲居雁ちゃん!なんとなく幾久しくお幸せに(^.^)というメッセージがよく似合います。そしてまたなんとなく、彼女が長生きして口うるさいおばあさんになって・・・と想像できるのはやはり彼女にとって幸せなことなのでしょう。それにしても、確かに幸福な日常は女を堕落させますね・・・いやぁ実感!!

しかし、源氏を主人公とする非日常的な大河小説の中で、紫式部がこのような、毛色の違った日常生活を描いたということはどういう意味があったのでしょうか。長々と書き続ける中でのインターミッションということなのでしょうか。いやいや、この夕霧と雲居雁の家庭を描くことで、若さを誇る美しい源氏が、現実にはこういう家庭生活を営んでいる若夫婦の父親なのだ、という事実をそれとなく示し、源氏の死への前奏曲を奏でる役目をしているのではないか、と私は思うのです。更には、源氏を中心とする六条院の生活が、いかに夢物語であるか、或いはアブノーマルな世界であるか、を考えさせる意図があつたのではないか、というのは考えすぎでしょうか。



次ページへ/表紙へ