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6月17日(木) 「玉鬘−源氏の変貌」
一週間以上空いてしまったのは初めてでしょうか?
イヤァ、怒涛の三連荘の後、三日くらい死んでいましたからね・・・

さて、お約束の玉鬘ーーったって、この人は夕顔と一緒にアッサリ書こうと思ってたくらいで、
それほどの思い入れはないのです。
ただやはり異色の女君ですからね、源氏物語の構成上も触れないわけには行かないでしょう。
なんといっても、紫上系・玉鬘系と称される分類をされるくらいですから。(これについては後日)

それと、やはり嫌いじゃないです!
男に寝室内に踏み込まれたら嫌と言えないあの時代に、
けっこうなレジスタンスをするではないですか。しかも、レイプされた後に!
だったら、その時もっと頑張れば、とも思うのですが、
(夕霧に踏み込まれた女二宮みたいに、ま、髭黒と夕霧の違いもあるけれど)
源氏にでさえ、それなりの抵抗はして、一線は超えさせなかったのですから。
ま、源氏の方にも逡巡するところはあったにしても、ね。

ちよっと話が飛ぶけれど宇多田ひかるって玉鬘だと思ったの。
母の怨念をよりSophisticateして出現してその場をさらっていく!?と言うような。

頭中将の娘でもあり、夕顔だって、私は結構それなりの「知性も才気もある女」だと思っていますから
( 前の夕顔の時書いた)頭はもともと悪くないはずです。
ただ、田舎育ち( ここがニューヨーク育ちのヒカルチャントハチガウナァ)で、
一流品(ブランド品ということではない)に囲まれて育ったわけではない。

太宰府の少弐といえば県知事の次官というあたりでしょうか?
大宰府の長官は帥で親王の名誉職、次の権の帥は、貴族が罪をきて逼塞するとき在京のまま被官する役職で(菅原道真は実際飛ばされた!)、たしか大弐が現地の最高責任者だったとは思うのですが(今手元に資料がないので?)、で、少弐は副知事つてところ?
例の太夫の監はその下の大監、小監、どっちかな?

それにしても、都の最上級の御姫様のような教育は望むべくもない。
とはいえ、乳母がよく面倒をみましたね。
乳母といえば母親以上とはいうけれど、自分の夫の任地にまで連れていってかしづくなんざ
この時代だって希なことだったでしょう。末摘花の使用人をみれば、あれが当然デスよ。

あぁ、話がまた本題からづれ落っこちそ・・・

源氏が須磨流浪から戻って二条院を新造営して、さらに六条御息所から預かった六条院を
我が物顔に拡大造営して一大ハレムを形成し、わが世の春を謳歌するのです。
最大の危険因子である藤壷ももういない!その死は源氏個人には悲嘆であったとしても、
これで、源氏最大のウィークポイントはなくなったわけですから。
世の中をまたも甘く見始める、その時、彼女は現れるわけですよ。
自分が成熟仕切ってきて、更にあの幼かった紫上でさえ女盛りになっている、
周りの女たちも当然、それなりにADULTになっているわけです。
そこへ、田舎育ちの野生味を帯びた少女(たって二十歳過ぎというところらしいけれど)の登場!
しかも燃え上がった炎の最高潮の瞬間に失った恋人の忘れ形見!
しかも、父親は永遠のライバルであるあの男、とくれば
現代小説にだつて書けるテーマデスよ、こ・れ・は・・・
(源氏物語の特色のひとつでもある、女君の登場の仕方にそれぞれ趣向がある、というあれ)

玉鬘の登場によって思い知らされるのは時が移った!ということ。
もはや源氏が若くはないのだ、ということです。

その前段の「乙女( 少女)」で、もう初恋を感じるような息子を持つ父親としての
思慮・教育観などを見せてはいるが、読者の方にも、源氏の方にも
まだまだ、あの無鉄砲な若僧のイメージが先行していて
夕霧に説教する源氏自身 をくすぐったい思いで見ているのです。
しかし、源氏は、壮年の働き盛り、遣り手というよりは辣腕の政治家として
もののまぎれ( 姦通)の結果である冷泉帝を帝位につけ、
六条御息所の遺児を養女にして入内させ、子供の無いまま立后を果たします。
昔日の無鉄砲で軽薄で色事のことしか眼中に無い無節操な
「自分の美貌と出生だけがたより」という軟派男とは、まるで違った男になっていることを
読者は思い知らされるのです。

もはや、欲しいものに直情的に手を出すのではない。
相手の反応をみながら、焦らすが如く、嬲るが如く、嫌がられれば嫌がられることを楽しみ、
玉鬘の気持ちが慣れてきて共犯的に自分を受け入れる気分がほのみえると
琴を枕に「添ひ臥したまへ」なんて事をして現場をしっかと夕霧に抑えられるわけですよ。
田辺の「お聖さん」風に言うと、よ、エロ親爺!ってことになるやろね。

しかも自分の持ち物だと思うから、他人に見せびらかしたくなる!
ヤナヤッチャナ!
と、そればかりでは源氏のメンツがたたん!
(ここ、ちよっとお聖さん風?)
玉鬘相手に「物語論」を展開して、痴的ならぬ知的なところをみせるわけだ!

正直申しますと、この辺は、今度読み返してみて、
あぁ、こんなこと書いてあったんかいな、と初めて読む心地す、と言うところでした。
そういえば、寂聴の「わたしの源氏物語」と言う中で、そういう事(「源氏の小説論」)を読んで、
ああ、そんなことかいてあったなぁ、というくらいの記憶はあったのですが、それっきりでした。

それより印象深いというのは、
ん十年前の私としては、玉鬘には物語を読むように奨励して、
一方、自分の実子である后がねの明石姫に対しては、物語など読んで恋愛ごっこなどに
夢中にならぬよう厳しく言いつけた、ということです。
これは、自分の女と自分の娘への思惑の違いが見事に書き分けられている、と
思った事でした。ん〜、これが男の本音か!ってとこです。
そう、これは、兵部卿宮をけしかけて、灯かりを消し、
一斉に蛍を放って、玉鬘を見せるというクライマックスよりインパクトが強かったですね。
私って、変なとこに感心するんだなって、これも今回の読み返しで得た発見でした。
といっても、私自身がその場面に感激しているわけではなく、ああ一般的には、
こっちの方が主になるんだな、だけど私はーーということ。
だって、私としては、あくまでも、蛍を放って玉鬘を見せるのは
物語に季節感を盛り込み、更に、兵部卿宮の心うちに火をつけるという意味だ−−くらいに考えていたのですから。

どうでもいいけど、長い、長すぎ!
玉鬘から源氏その人の話しになっちゃった。
これだから素人は困るね。
玉鬘の出処進退はまた明日って、何時の明日か・・・

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