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7月14日(水)「景色の女君と叙情の女君−2」
「景色の女君達」たって、御たいそうな論文があるわけではありません。
源氏物語のなかで、本筋というか源氏自身に影響を与えず、物語を盛り上げる女性たちのことです。

言わば、源氏の女性遍歴のエピソードとしての役目と作品全体の彩りとして、
それにはそれのやはり、大事な仕事をしているのです。
ただ、やはりこれが世に言う源氏構成上のひとつの手がかりなのだろうとは思います。

私個人としては、源氏物語を初めて読んだ時のように、桐壷から順番に雲隠れまであって、
宇治十帖がくっついていて、というのが望ましい形(?)なのですけれど、
世間的には、もはや、それぞれの段は或程度バラバラに書かれていて、
それを総括するような形で「前説的意味合い」で桐壷が書かれ、
「雨夜の品定め」にしても、後になって、「アンソロジー的」に付け加えられということになるらしいのです。

それでも、円地文子氏でさえ、その著「源氏物語私見」の中で、
「私は、いつも言うとおり、『源氏物語』を愛読者の立場で見てきたので、作者については余り拘泥りたくない気持ちであった。
実を言えば、この希有の傑れた物語の作者が、複数であっても単数であっても、私にはたいした問題ではないので、仮に紫式部という名前が集合名詞であっても、『源氏物語』を評価する上に何の変わりはないと
思っている。」
この後、「私が読んでいるうちに自得した勘に従えば、この作者は女性であろう、ということだけは言える。」
また、世に言う「宇治十帖」については、「果たして正編と同一人の作家の手になったものであろうか。
私には、疑問を差し挟みたい点がおおいのである。」という記述があります。

田辺聖子氏はといえば、その著「源氏紙風船」の末尾に、「紫式部という女」という一章をものし、その中で
与謝野晶子の「『藤裏葉』までは紫式部自身、後の作者(晶子は式部の娘・大弐の三位を擬す)は、薫のために『若菜』から書き起こした」という説を受けて、
「私は『宇治十帖』も、晩年近き紫式部の手になるものと考えているのだが−中略−
式部はこれを書き終えると、火が燃え尽きたように死んで行ったのではあるまいか、−さらに中略−
「紫式部はみずからの手で宇宙を完結した。私はほんとうは、『宇治十帖』は未完なのではないかと思っているのだが、式部はそこまで書いて命終えたのである。命終えることによって、物語宇宙は静かに完結したのである。」

瀬戸内寂聴氏といえば「私の源氏物語」は光源氏の死と共に終わっています。
源氏物語の訳本ではない。それに付随するダイジェスト版のようなものですが、それにしても、
源氏の死とともに終わる、ということは、寂聴氏にとっての源氏物語は、「雲隠」で終っているのだと思います。
―と、思っていましたら、1999年12月1日の朝日新聞で、源氏物語の現代語約についてきかれて
「その最古の小説を読みやすい現代日本語にし、新しい解釈の光も当てた。一つは、紫式部は出家した、その後に書いたのが宇治十帖だと。もうひとつは、あれは女たちの出家の物語ではないかと。」と出ましたので、寂聴氏に関する解釈を訂正します。残念!(2000年1月3日)

ま、いずれにしても、源氏物語のオーソリティーである諸先生がたが「己が意志」を貫いて、
それこそ、「私の源氏物語」の世界を展開していらっしゃるのは心強い限りです。

この諸説をうしろ盾に私も、「私の源氏物語」として前言どうり言い切りたいところだけれど、読んでいるうちには、
ここはちょっくら違うんだべさ、というところも出てきて「景色の女君」とはなるのです。
ああ、やつと繋がった、あとはまた明日!ごはんつくらなきゃ!

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