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10月10日(日) 「宮家のお姫様」

女三宮と落葉宮は異腹の姉妹ではありますがあまり似ていない、ということになっています。
まぁ、母親の出自も絡んで、落葉宮は貞操堅固で頑固でしっかり者、女三宮は、きれいなだけがとりえの薄ら馬鹿、と言ったら言い過ぎでしょうか。これは末摘花の系列ですよね。落葉宮は朝顔系列。
ここに藤壺が絡んできたら、これ、けっこう「宮家の姫の輪」ができるのではないでしょうか?
容貌の美醜はおくとして(そうでないと末摘花が入れませんから)、
キーワードは頑固!それも空蝉などとは違う頑固!空蝉の頑固には相手を思う気持ちがありますからね。
お姫様達は、自分の立場からしか考えていないのです。

象徴的なのが藤壺です。あの人の出処進退は全て自分と冷泉帝の為であって、源氏のためではありません。勿論多少は源氏に心引かれることもあって「ものの紛れ」ということになったのでしょう。
とはいえ、源氏と罪を犯したとしても、あくまでも彼と彼女は共犯者であり、彼を深く愛する、という事にはなっていたのではないと思います。
だからこそ、源氏の愛を無視して、ああして鮮やかに秘密裏に落飾してしまうこともできたのです。

朝顔宮については、彼女の章で書いたとおり、自身の身を潔く守るためだけに生きた無味乾燥なお姫様。
源氏に言い寄られても、高みの見物、という姿勢を崩さず自分の立場だけを守りぬいた人。

末摘花は「悪律儀」と言われるほど律儀だけれど、それは他人のためを思う律儀さではなく、常陸宮の姫としての儀礼はつくさなければならないという自分の家柄に対する律儀さです。

落葉宮は内親王としては母親の出自が低いことを気にしつつ、それでも、母親は大事だと思っているのです。でも、そのために夫からさえ軽く見られているのを心外にも辛くも思っているわけです。
柏木が寝込んだ時も、柏木自身の重病さより、「妻たる自分」が看護できないのを悲しむわけで、夫のそばにいられないのを嘆いているのとは違うのではないか、と思います。
夕霧に言い寄られた時も、こんな時に軽く見られたがタメに言い寄られたのだ、と悲しむわけで、
多少は信頼していた夫の友人が、という失望もあったでしょうが、それより先に、「皇女たる自分」には、見かえり無く、無条件で庇護してくれるのはあたりまえ、という末摘花的発想があったのではないでしょうか。

女三宮についても同様で、まして、このひとは、一応母親も藤壺と異腹ながら(桐壺帝の)先帝の皇女という次第で、まぁ重々しい身分ではあるのですが、全くそれだけの人というおもむきです。
ただただ、まわりが良きように計らってくれるのを待っているだけの受身一辺倒の人です。
それが柏木との一件で自立して行くか、どうかはまた後の話しとして・・・

これらのお姫様は自分から、どうしよう、こうしよう、というのはないのです。ただ、まわりの担ぐお神輿に
よさそうならば乗り、危なそうなら、一歩も動かず、人の為ということは考えず、ひたすら、自分のことだけを考えて生きているのです。そして、それこそが彼女達のつとめでもあるのです。
内親王には人格がないのです。持ってはいけないのです。内親王は結婚しないもの、ということがそれを良く表しているではありませんか。
内親王というのは、やはり、古代からの、神に嫁ぐべき未通娘であり、神の声を聞くべき巫女という役割があったということもあるのでしょう。
それは、時代が下っても、そういう感覚は残っていたと思われます。
結婚すれば、愛すべきもの、憎むべきものが生まれます。
神の乙女である内親王が、自分以外のものに特別な感情を持つ、心を動かすというのは罪でさえあるのではないか、そんな人間的感情を持ってはいけないのです。
その持ってはいけない人間的な感情を持った時それぞれのドラマが生まれたのだと思います。
(まぁ、三条大宮のような幸福な家庭をもってよい晩年を過ごした幸せな内親王もいたわけですが、あれこそメルヘンではないのでしょうか)

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