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10月18日(月) 「女三宮モデル考」

これは、六条御息所のところで書くつもりだったのですが、
私は「六条御息所のサロンのソフィスティケートされた華やかさ」というものは、どうも、枕草子に出てくる「一条帝の皇后(当時はまだ中宮)定子のサロン」を連想させる、と思っていました。
枕草子が書かれた頃は、紫式部は、まだ宮仕えもせず、里居のころで、それこそ受領の娘にとっては「雲の上の話」であったでしよう。しかし、それだけに垣間見る殿上人達の話は興味深く心躍らせるものがあったと思います。
源氏物語を書き出すに当たって、思い浮かべたのはまずそのことだったのではないでしょぅか。
もちろん、清少納言に対するライバル意識をも含めて。
かたや道長が紫式部を始めとする当代の才女を彰子の周囲にかき集めたのも、定子の中宮大輔として、その華やかにして洗練の極地であった中宮定子のサロンを、目の当たりにして、
これこそか゛、一条帝の関心と宮中の尊敬を集める最善策と確信していたからといわれたおります。

では当の定子と彰子の資質はいかがだったのでしょうか。
定子という女性は、単に頭がよい、というだけではなく、
雪のいと高う降りたる朝、「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ。」ときくウィットにとんでいます。
定子には、清少納言がどう応えるかという当然の予想をしてお尋ねになるわけです。
主従は馴れ合いの小芝居を演じていると言っても良い、そして、ここが重要だと思うのですが、主従の垣根を越えて、心を許し合える同朋、同じ気質に恵まれた者同士としての通い合いが感じられます。

「御方々・君たち・上人などめ御前に人のいと多くさぶらへば、」、清少納言風情はお傍近くにも寄れず、
「廂の柱によりかかりて、女房と物語などしていたるに、物を投げさせ賜はせたる、あけたみれば、『思ふべしやいなや。人第一ならずはいかに。』と書かせたまヘリ。」
これは、日頃、清少納言が「すべて、人に一に思われずは、何にかはせむ。−中略−二、三にては死ぬともあらじ。」と豪語していることを覚えていらした中宮が茶目っ気たっぷりに、彼女に戯れかけるのです。
清少納言が「九品蓮台の間には下品なりとも。」とお答えすると(皆々、身分高い人たちがおそばに取り巻いているため直答もできない、書いてお目に書ける状態なのです)
と、中宮が「むげに思ひ屈しにけり。いとわろし。言ひとじめつることはさてこそあらめ。」とのたまはすのです。更に清少納言が「それは人にしたがひてこそ」とおこたえすれば、
「そがわるきぞかし。第一の人に、また一に思はれむとこそ思はめ。」とおっしゃいます。
いかに定子が清少納言を身分の隔たりを忘れ、こよなき者として愛していたかがわかる場面だと思います。

果たして彰子にこのウィットと気概があったでしょうか。それ以前に彰子は定子か清少納言に寄せるような友情、というか、こころの通い合いを感じていたのでしょうか。

円地文子氏の「源氏物語私見」の中には、
「彰子という人も賢い人で、式部の影響を相当強く受けていたと思われます。定子が早く亡くなったために、一条天皇の第一皇子敦康親王を自分の手許に預かって育てます。一条天皇が亡くなる少し前、どうしても皇太子を立てなければならなくなった時、彰子は自分の子どもではないけれども、第一皇子なのだから、
敦康親王を立てるのが筋だと言う旨を、しきりと父道長に進言しています。大体、彰子自身に子が生まれなかった十年間は、敦康親王を我が子のように慈しんだと言いますし、密かに東宮位を約束していたとも言われています。いつまでも生き長らえるともわからない道長にしてみれば、彰子の生んだ第二皇子をどうしても立てたい。結局は道長の思い通りに事は運ぶのですが、父親に対しても、きっぱりと道理を説くあたり、ただのお姫様ではなかったようです。」
という記述があり、彰子自体は紫式部の影響もうけ、理論派のなかなかの女性ではあったようです。

しかし、だからといって、定子のようなウイットに富んだ、ある意味「享楽的」ともいえる人生を華やかに愉しむタイプではなかったように思われます。
当然、主従のけじめはけじめ。「師」として尊敬はしていても、彼女にとっての紫式部は「侍講」以上の何者でもなかったのではないでしょうか。紫式部とて、当然頭の中ではわかっていたと思います。
しかし、定子と清少納言との交流を思い出すたびに「こんな筈では・・・」と言う思いが心の片隅をよぎることもあったのではないでしょうか。
里居で枕草子を読んで雲居の生活に思いをはせていた頃、私なら、もっといいおこたえができる、こんなむくつけに、知識をひけらかすのではなく、さりげなく、もっと上品なおあしらいができる、と想像していた紫式部にとっては、彰子は大事な主人であり、教え甲斐のある優等生だったとしても、いま一つ、充たされない「欠けたる月」であったように思うのは私だけでしょうか。
思えば「はじめより、おもひ上がり給へる御方々」のおもひにはどんな意味合いがあったのか、とも考えます。
ある意味で、定子と清少納言が似た者同士であるように、彰子と紫式部も似た者同士ではあったのです。それが、前者の場合はより強く惹かれ合う動機となり、後者の場合は反発とまではいかずとも、見えない垣根が、高くめぐらされているような結果になったのではないでしょうか。

式部も時には、彰子にむしょうに聞きたい誘惑に駆られる事があったのではないでしょうか。
「中宮様にとって、私はなんでごさいましょう?」
「よき師です。」
「よき師?それだけでございますか?」
「よき師、そなたはそれ以上の何を望むのです」
「いえ、何も、何も・・・、過分なお言葉を頂きまして・・・いいえ、違います。私か゛お聞きしたかったおことばは・・・」
それ以上のどんな言葉をも、彰子にも、自分にも無いことは、式部自身が十分わきまえていたはずです。

そんな思いが屈折した形となって女三宮像に集約して行ったとしても、おかしくは無いと思うのですが。
彰子は内親王ではありませんが、藤原氏の「氏の長者」の娘として、内親王並の生い立ちと育ち方をしていたとすれば、彼女の描く「お姫様」たちが一様に自己完結の世界に没頭する人々として描かれたとしても不思議は無いのではないでしょうか。
ただ、やはり、彰子には、内親王の御巫的性格はないでしょう。それゆえに、女三宮の性格付けもああいう「他愛ない」という描き方になったのかも、と思うのですが。

実をいえば、私としては、葵上のモデルを彰子にとっているのでは、ということを考えていたこともあったのです。
丁度、というか、例の「車争い」で、葵上方が六条御息所の車を散々に辱めますよね、あれが、なんとなく道長が、定子の実家同じ藤原道隆家(当時は、道隆は死に、定子の兄伊周が当主、枕草子に出てくるかっこいい隆家は定子の弟)を追い落としたことを連想させるものがあったからです。既にあの車争いのあたりは、早い時期〜里居の頃には書かれていたのではないか、と考えれば、それほど無理な解釈でもないとは思うのですが、源氏物語を書くことを勧めたのが道長とすると、「?」ということになります。

勿論、密かに定子に同情するところがあった紫式部が「書く以上は、私が書きたいように書かせていただきます」というような気概を持って、そのような構成をわざととったとしたら、別ですが、そこまで、紫式部が逢ったこともない定子に心中立てをするものか、どうか、ということもあります。
六条御息所のサロンの華やかさに定子のそれを連想させるだけで十分ですし、ハッキリ言ってそれ以上は危険ですらありましょう。
中宮の兄弟で、自分の甥でさえ罠にかけ、罪に落とすことを躊躇無くする権力者が相手なのですから。
で、まぁ、女三宮は彰子をモデルにしているのでは、という説に飛びついたわけなのです。

(彰子をモデルに投影したという女君については「藤壺」の章にも書いてあります)

いずれにしても、源氏物語を読んでいて、紫式部の中には、御堂関白家に対する屈折した思いがあるように感じるのは私だけでしょうか。
これについては、また、後日、もう少しまとめて考えて見たいと思います。

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