題詠である。須磨の関を場面に浮かべての題詠。
「千鳥」は当時既に冬の季語であった。
「いく夜寝覚めぬ」は問いかけである。(最近の《誰と言ったか》中堅学者の論文で決まった。)
-->> [誰]から「関守」への問いかけか。
須磨というのは寂しい漁村。平安朝の初、行平が身を隠していたりなど、貴族が身を隠す、或は引退する所である。源氏もそうである。そしてそこに関がある。先生のイメージでは暗い中に灯りがあって関の番人が寂しそうな顔をしている。そこへ貴族が??してくる。そこで、
-->> 「その貴族」から「関守」へ
三奥抄(江戸の古典学者)に
源氏「須磨」をふまえたとか言う。すると、
-->> 「源氏」から「関守」へ
「本歌取り」と「本説取り」について
本歌取り──三代集あたりの有名な歌から言葉を取る。(俊成・定家の頃から始まる。)
本説取り──漢詩や物語の筋から取る。
俊成が「源氏読まざる歌詠みは遺恨のことなり」
寺本氏が本説取りを丹念に指摘。
源氏は十一世紀初に成立。 -->> 康和頃から広まる。この間約百年。
当初、更科日記の頃 -->> 男を含めた貴族一般にまで。
例えば、72「音に聞く」は康和のもの(「懸想組合せ」とか「艶書合せ」とか言う。)で、これは、源氏をふまえたという説。
千載集について
「須磨の関」は、注の通り、源氏「須磨」をふまえているとして良いかと。(1160年代の歌と考証される。)(後の二首についてはいずれも注参照。)源氏の中のある場面雰囲気をそのまま歌にしたもので、初めて非常に完成度の高い歌。
それほど有名でもない兼昌の歌を採った定家の意識。「撰」にある意識の重要性。
皇嘉門院別当もキャリアとしてはやはり低い歌人。
先生、昔こういう《「複雑な」或は「ややこしい」と言われたか。》歌が大嫌いだった。でも年をとってくるといい歌だと思う。
上から下まで連鎖していく技法が、これからずっとあなたのことを思いながら生きていくのだなあということを暗示している。
うひまなび に
「中ごろ」は平安のこと。
「遊女の立場で詠んだ歌とも取れるが作者が女だから旅の宿と見て良かろう」というのが、以後今に至る解釈である。
六百番歌合に
「『難波女』では『遊女』の題(題詠)に不足」とする話。
七、八割の百人一首の解説において、「遊女とみられる」とし、また、同時にそれらの多くが、「遊女と見ても、遊女と見なくても良い」とする。先生もそうである。
更科に「難波わたりにくらぶれば」とある。
ある雰囲気が感じられる場合には、難波と遊女は結びつく。ということは、七、八割方「遊女」である。更科にしても、88「難波江の」にしても、遊女に対する差別的イメージは無い。むしろ(洗練されたものとして)評価される。
(2)のまとめはやはり、無名であっても、選者である定家の意識が現れた撰となっているという点である。
天智─持統 である。
1「秋の田の」について (2「春過ぎて」は(1)で既に触れている。)
万葉「香具山と」、「海神(わたつみ)の」
1「秋の田の」と同様に、スケールの大きな帝王調の歌である。
(資料、万14 香久山と耳成山と鬪ひし時立ちて見に来し印南国原
/万15 海神の豊畑雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ)
万葉「秋田刈る」(詠み人知らず)によく似る。
(資料、万2174 秋田刈る刈穂をつくりわが居れば衣手寒く露ぞ置きにける)
これらが人丸集や家持集などにあるということは、万葉集にあった労働歌であろう。八世紀頃。(万葉の新しいあたりは八世紀前後と見られる)
後撰、天智天皇の歌に、「天智天皇が農民の苦労を感じて、云々」とある。
天智系の時代にあって、天智天皇に対する思いは厚い。そうして天智天皇の歌とされるようになったものであろう。
新古今「秋田もなかり庵つくりわがをれば衣手さむし露ぞおきける」(詠み人知らず)(万葉
-->> 新古今)
撰者名注記《その歌を推した撰者を記したもの》に「定(定家)」「雅(雅経)」とある。これを信じれば、定家の認識は「詠み人知らず」であったといえる。
百人一首のまず始めに1、2の歌を置いたということは、王道が行われているからだと。(定家が)和歌というのは建前にも王道が行われているのを明らかにするものだと考えているということ。
3「あしびきの」について
序詞。(「序詞」は「じょし」と言うのが本来であろう。助詞と区別して一般に「じょことば」と言う。)
序詞は具象的でイメージを伴うもの。それに対して、(この)歌の主想は抽象的となる。抽象が具象化されていく。また、序詞の末が次の主想に掛詞となって続いていく点で注目して良い。
46「由良の門を」について
「ゆくへも知らぬ」も序詞が、一種、掛詞のように主想に繋がっていく。
「由良」=「丹後」であろうとされたが、今は吉海直人先生の説が強くなってきた。まだ分からない。
77「瀬をはやみ」について
これもほぼ同様で、百人一首にこの手が多い。具体的なイメージに非常に重点を置いているのである。これらは非常に巧みであるが、比較的古い時代に多い。
-->> では新しい時代はどうか。(三)
序詞的なイメージを含む言葉を間に挟みこんでいる。
97「来ぬ人を」について
万葉の長歌を本歌とする。男の嘆きを女に換えている。(「女装の定家」と言われる。)
74「憂かりける」について
「もみもみ」という珍しい言葉。
上手い表現とされてきたが、田中裕先生によると、勢のあるものとするのが優れていると、《よく分からなくなった。》
田中先生は、二年三年に一遍しか論文を書かないが、非常に深いものを書かれる。(井上)先生は人文科学というのはそういうもので良いのだと思う。(引用量が多いとか、年に何本も書くとかは関係ない。)
19「難波潟」について
伊勢集について
伊勢集は伊勢の歌ではない。新古今時代の人が伊勢の歌だと思ってしまった。
新古今に
「有(有家)」「定(定家)」「隆(家隆)」「雅(雅経)」の推。評価されている。技巧的に優れている。
27「みかの原」
新古今 恋一 は
まだ逢わない恋と解釈されて良い。
古今六帖について
一般に勅撰集は、作者名や詞書は書いていなければずっと続き(「同前」の意)であるが、しかし、古今六帖は無表記は「詠み人知らず」である。それを新古今は勘違いした。
堀川百首に
「初恋」は「はじめのこい」と読むのであって、恋の最初の時を言う。
題詠、組題は、例えば、秋に霞でも詠むのであって、和歌の虚構化を推進した。
23「月見れば」について
燕子楼詩について
23「月見れば」は漢詩からの影響がある。
月は秋。月の美しさと秋の夜の寂しさの対比。こうした美意識が日本の美意識の故郷になっていくといえる。
33「ひさかたの」について
先生の時代では小学五年の教科書にあった。
定家によって初めて世に出たであろう。
44「逢ふことの」について
カルタでは「オー」で始まるのは三首ある。決して「アウ」とは詠まないで。
51「かくとだに」について
「伊吹」=「下野」だと強く言っている人が最近いるのだが、他に多くあるので「近江」である。
55「滝の音は」について
權記について
大覚寺に、八世紀に石組みが組まれるが、九百年代に道長の供で行成が行った時には既に水は落ちてなく、跡だけだった。
拾遺にあるが
定家は拾遺にあるのは気付かなかったか。
定家にとって落とせない歌人というのがあって、一つはこの公任、もう一つは師匠の、
(七)(八)(十一)について。
何故こんな歌を入れたか、もっと優れた歌があるだろうというのが、後世の人の疑問。そんなの分かるか。それでも考えてみると、
(七)
おとなしい歌。定家晩年の好みか。
(八)
当時から評判が高かった。
(十一)
発想の面白さ。普通の歌と違う西行(西行と言えば「花」と「月」だが)の面白さ。
松野先生がこう言ったかわからないが、こういうことだろうと思う。
(七)58「有馬山」について
中氏の論文によると、
大弐三位の歌を並べると、後の歌が、前の歌の言葉を非常に忠実に取り入れる。贈答歌然り。勿論、贈答歌はもともとそうだが、彼の場合は実にはっきりと、そう読み取れる。
(七)と一緒に。
式子の生年について
式子内親王は、有名ながら生年が分からなかった。十五年前に、上横手氏によって「二十一歳だった」という記述があるというので、1049年生であることが分かったが、五年前に、兼築氏によって確定した。
こんな歌を詠むのだからよほど良い恋人がいたんだろうかと。相手は定家だろうとか。先生は、それはまた別の話だろうと。
後藤氏について
歌は前半は男のものが多いが、後半は女の恨みが多いという。これは「男装した式子」だと。(イメージとしての「柏木」《?》)
-->> 組題の発達という流れ。
これ(「前半は〜、後半は〜」)に対するちゃんとした反論は無いが、逆に本当にそのままでいいのかという感じもある。(人文科学とはそんなものかもしれない。(と、先生が言うのも)他人事みたいだが。)
(七)と一緒に。
古典和歌を読むなら、できるだけ良い注釈書を読んで、周囲のことをよく知った上で読むのが良いだろう。それで、あとは自由に解釈したらよい。
次回、百人一首の歌は一首として解釈してよいのか、本来の詞書をふまえるべきか、ということ。
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他、主宰から、「11月11日〜28日、当館三十周年記念展示がある。休日も開館し、展示替えもあるので、是非。」とのこと。